Colour No.11: Purple

 日本から届いたマコからのエアメイルに、ピンク色の押し花が同封されていた。白い和紙の紐がつけられ、ラミネート加工まで施されてそれはそれは素敵なお手製の栞になっていた。

 サクラというのがその花の名前だと、私は知っている。教えてくれたのはマコだ。日本の春を告げる花。マコが大好きだというサクラ。

 オーストラリアの春は日本の秋にあたる。マコがシドニーにいたころ、ジャカランダが咲き始める9月の季節に、私はとっておきの小路にマコを案内した。街路樹がみごとな紫色のアーチを作る。こぼれ落ちた花びらが、道路を染めてまた美しい。

「ここで見るジャカランダが好きなの。この紫色の景色を見ると私、ああ、春がきたんだなって思うわ」

 私が言うとマコは、目を輝かせてサクラの話をしてくれたのだ。日本人もサクラが咲くと春を感じること、ジャカランダと同じように街路樹として植えられていることも多いこと、淡いピンクの色合いが、ジャカランダの薄紫とトーンが少し似ていること。

「ああ、メアリーにも見せたいわ! 私にもあるの、サクラがきれいに咲く大好きな場所が」

 マコは言った。

「そうね、いつかきっと、日本に行くわ」

 私は言った。社交辞令のつもりはなかったけれど、流れで自然に口から出た相槌のようなものだった。マコは一瞬、呼吸を止めるような表情で私を見て、そのあとすぐ、ふんわりと笑った。

「きっとよ」

 

 10年前、大学生だったマコは、交換留学生として私の家に10ヵ月間ホームステイしていた。それまでも何度か日本人の女の子を受け入れたことがあったけれど、マコは私にとって特別だった。マコは私より5歳年下で、人なつこい彼女はかわいい妹みたいなポジションにいたものの、実際のところ彼女の聡明さは私をいつもさりげなくリードしていた。マコと私は、いつまでもいつまでも話していられた。逆に、同じ部屋で何時間も無言のままお互い自分のことをしていても、ちっとも苦にならないのだった。

 マコが帰国してから私たちの間でいったい何通のエアメールが交わされただろう。マコの英語力はどんどんレベルアップして、時折私はネイティブから手紙を受け取ったような気分になった。最初にマコが使った薄い便箋とトリコロールの封筒がとてもラブリーだと私が手紙に書いてから、彼女は律儀に、もう何年もそのスタイルを崩さない。変わったのは、ボールペン書きだったのが、私が贈った万年筆になったことくらいだ。

 会いたいですとお互いに何度も書きながら、なかなか実現しなかった。ほんのたまに、電話で少しだけ話をすることがあったけれど、私たちはあれきり顔を合わせていない。なのに彼女はいつも私のすぐそばにいるように感じられた。海を越えてやってくるエアメイルは、私にとって「マコ」そのものだった。

 

 1年前、私は病に倒れた。

 1ヵ月ほど入院したのち、私の病状が悪化していてこの病院で治療するには少し難しいと医師に告げられた。紹介状を書いてあげるからもっと設備の整った都心の大きな病院へ移るようにと、医師は言った。私は首を横に振った。

 私が入院していた病院は郊外にあって、部屋の窓から広々と海が見えた。私はその風景をとても気に入っていたし、ゆったりした個室も居心地が良かったし、主治医もナースも大好きだった。医師が紹介すると言った病院は、数年前に別の病気で1週間ほど入院したことがあった。ぎゅうぎゅうの相部屋、ビルしか見えない部屋、気ぜわしく立ち回るスタッフ。医療設備が整っているのだとしても、あんなところで気の休まらない想いをするのはこりごりだった。

「もしもここで果ててしまうとしても、私はそのほうがいい」

 私はマコにそんなふうに、手紙に書いてしまった。子供のころから身体が弱かった私は、自分は長くは生きられないと、頭から思い込んでいた。自分の生死と直面するのがいつも怖くて、期待しないようにわざと「だめなほう」を想定するクセがついていた。

 マコはその手紙が届くとすぐに電話をかけてきて、すぐに大きな病院へ移ってほしい、治るように努力してほしいと懇願した。

「メアリー、あなた、私との約束、忘れちゃったの?」

 電話口でマコは泣いた。

「約束?」

 申し訳ないけれど、私はマコの言う約束がなんだったのかわからなかった。

「覚えていないならいいわ。でも私は、ずっと楽しみにしてるから」

 マコはそう言って電話を切った。

 

 半分怒っているようなマコの声に、私はもう嫌われたかもしれないと思っていた。しかし一週間して、マコからやけに明るいエアメイルが届いた。一枚目の便箋の端に、何かをこぼしたような茶色いシミがあって「ホットココアでお温まりください」なんて吹き出しがついている。

「その病院がメアリーにとってそんなに愛すべき場所ならば、転院せずそこでゆっくり養生するのもいいかもしれませんね」という内容だった。あんなに反対していたのに、どうして急に気が変わったのだろう。

「好きな場所にいるだけで、元気になることもある。ある人が、そう教えてくれました」

 その一文を読んで、私はハッとした。

 マコとの約束。サクラだ。

 私はすぐに返事を書いた。

「必ず病気を治して、日本に行きます。マコと一緒に、サクラを見るわ」

 

 しかし私の病気は、急ぎの手術が必要になるくらい早く進行した。 医師は、成功の確率はフィフティ・フィフィティだと言った。もしかしたらもう目覚めないかもしれないという覚悟をしてください、と。私はもう、怖くなかった。半分も可能性があるのなら、大丈夫だという気がした。手術で悪いところを取って、元気になるのだ。だって私は、マコとサクラを見るのだから。そう約束したのだから。

 手術の最中、麻酔のかかった朦朧とした意識の中で、私は不思議なビジョンを見た。マコがお姉さんで私が妹だった。夢なのか、遠い遠い過去の記憶なのか、定かではなかった。でも私たちは何か強いものでつながっていて、どんなに離れてもまた引き寄せられて出会うことになってしまうのだと、理屈ではないところではっきりとわかった。

 手術を終えて、私は目覚めた。新しい私が、待っていた。

 

 4月、私はマコとの約束を果たした。

 初めて訪れた日本で、川沿いに咲き誇る桜並木をマコとふたりで見た。

 手術後の回復があまりにもめざましく、医師は驚いていたが、私はなんだか当然のように感じていた。身体がサクラに間に合わせたのだ。ジャカランダは春の間ずっと咲くのに、信じられないことにサクラの見ごろはわずか数日なんだもの、ゆっくりもしていられない。

 花見客でにぎやかな川のほとりで、私はマコに言った。

「ねえ、マコ。今度はまたあなたがシドニーに来るのよ。私とジャカランダを見るの」

 マコは栗色の髪を揺らせながら微笑み、大きくうなずいた。

「ええ、きっと行くわ」

 私たちは1秒先のことも知らされないまま暮らしている。自分の意志だけではどうしようもない、抗えないことも向こうから訪れる。そんなときに果てなくふくらんでいく不安は、私たちにおそろしいシナリオを書かせる。自分で作ったストーリーなのに、まるで誰かに与えられた未来のように、そしてそれがもう決まってしまったかのように、私たちはおびえてしまう。

 でも本当は、そんなものはどこにも実在しないのだ。今ここに、たしかにあるのは、呼吸をしている私、笑っているマコ、咲いているサクラ。

 私はただ、約束の日を楽しみにしながら、しあわせに生きていよう。マコが再びシドニーに来て一緒にジャカランダを見たら、また次の約束をしよう。私は心でそう誓って、川の流れにのって運ばれていくサクラの花びらをうっとりと見た。