Colour No.10: Black

 目を白黒させる、と書きかけてわたしは「あっ」と声をあげた。

 主人公は青い目の西洋人という設定だった。びっくりしているさまを表現したかったのだが、青い目なのに白黒させるというのはおかしい。

 ということは、西洋人の多くは「ワシの目の黒いうちはそんなことは許さん!」なんてのも、言わないのだった。ほう、と息をつき、わたしはにやにやする。日本語好きのグレイスに教えてあげようと思う。

 わたしが翻訳家になりたいと思いはじめたのは14歳のころで、同じ年のグレイスはそのとき、わたしの「ペンパル」だった。雑誌の文通コーナーでオーストラリア人の彼女を見つけたわたしは、自己紹介文を読んでくらりときたのだ。「I can talk with a flower.(私はお花と話せます)」。おもしろいことを言う。わたしのまわりに、こんな子はいない。

 グレイスと交わした数々の手紙は、わたしの少女時代をそれはもう、たいへん豊かなものにしてくれた。グレイスはほんとうに花や木と話ができて、それは大人になっても変わらなかった。彼女はその能力をもてあますことなく、不遜にもならず、植物から受け取った恵みを感謝しながら人々の生活に役立てている。彼女と出会わなかったら、わたしは翻訳家にはなれなかったかもしれない。そして、こんなふうにシドニーで暮らすことも、絶対になかった。

 ずっと文通を続けていたわたしたちは、20歳のときにやっと会うことができた。わたしが大学の夏休みを利用してシドニーを訪れたのだ。空港に迎えに来てくれたグレイスを見た瞬間、わたしは思った。なつかしい、ああ、なつかしい。初めて会うのに。手紙では6年間の交流があったけど、そういうことを飛び越えて、もっともっとはるか昔の記憶が呼び覚まされた気がした。

 わたしにはグレイスのような特別な力はないけれど、なんとなく「前世」みたいなものを信じている。というより、信じざるを得ない。わたしたちは、言葉にせずとも、互いをあまりにも知りすぎている。きっと前の世でも深いつながりがあったに違いない。忘れさせられているけれども。英語に惹かれる私は英語圏の人だったのかもしれないし、日本愛好家のグレイスは日本人だったのかもしれない。

 グレイスはわたしに「なんて黒い瞳。なんて素敵」と何度も賞賛した。シドニーで日本人なんて珍しくもないだろうに、グレイスは繰り返しわたしの黒い目を讃えるのだ。グレイスの瞳だって、透き通ったライトブラウンで、とってもきれいなのに。

「アツコの瞳の黒さは、他の人とは違う。あなたの瞳には濁りがないわ。だからいろいろなものがはっきりと映るのよ。人が気づかないようなことも、アツコにはちゃんと見えるのよ」

 グレイスはわたしのいちばんの理解者で、わたしをいつも励ましてくれた。

「アツコの夢はきっとかなう。私が保証する」というのがグレイスの口ぐせだった。その言葉がどれだけ心強かったか知れない。彼女がそう言ってくれるならそうなのかもしれないと、わたしは自分の未来に希望を向けることができたのだ。

 大学を卒業後、ゼミの先生が紹介してくれた出版社から童話や児童文学の下訳を請けるようになり、編集者に気に入ってもらえて、わたしたぽつぽつと翻訳をさせてもらえるようになった。グレイスはとても喜んでくれて、「でもこうなるってわかってたわ!」と言った。年に1度、グレイスに会うためにシドニーへ来ているうち、エンジニアのマークと出会って結婚をした。それからシドニーで翻訳の仕事を続けている。

 わたしとグレイスは数年のあいだ近くでマークが妬くほどの蜜月を過ごしたが、グレイスがアロマセラピーを究めるためにイギリスへ行ってしまい、わたしたちはまた文通をしている。メールもたまにはするけれど、やっぱり手紙がいい。もうすぐ40歳になるわたしたちは、14歳のときと同じように、ポストに封筒が入っているのを心待ちするのだ。

 サーキュラキーのオープンカフェでエアメイルを書いていたら、ふと視線を感じた。隣のテーブルにいたブロンドの若い女性がわたしを見ている。彼女の手元にも便箋があって、だれかに手紙を書いているようだった。ちらりと見えた文頭に「Dearest Mako」とある。

 目が合ったのでほほえむと、彼女ははっとしたように首をすくめた。

「ごめんなさい。じっと見たりして。日本人の友人のことを思い出してしまって、つい」

「そのご友人にお手紙を書かれているんですか?」

「ええ。今はなんでもメールですませることが多いけど、私たち、手紙が好きで」

「わかります。わたしもです」

 彼女はやわらかくうなずくと、海に目をやった。行き交うフェリーの向こうにハーバーブリッジが見える。

「私、その友人とは前世で会ってたんです。たぶん」

 ブロンドの髪を揺らせながら、彼女は言った。わたしはびっくりして顔を上げた。彼女は続ける。

「一度ね、私、病気で死にかけたんです。そのとき、なんとなく思い出しました」

 なんて興味深い。わたしは身体を乗り出して、彼女の話を聞いた。

「私はその友人の妹でした。今世では私のほうが少し年上ですけれど、前世での友人はずいぶん年の離れた姉でした。私は前世でも身体が弱かったみたい。それだけ、わかりました」

「うらやましいです。生まれてくるときに前世の記憶は全部消されてしまいますもんね」

「そうでしょうか?」

 ブロンドの彼女はやんわりと言って首を傾けた。

「誰でもほんとうのほんとうは、忘れていないんじゃないかしら。あなたも、初めて会ったのに何年も一緒にいるような気がする人っているでしょう? 記憶を消されてしまっているのではなくて、むしろ、必要なだけ残されているっていうほうが正しいんだと思います」

 私は胸を突かれた。彼女はまっすぐに私を見つめて言う。

「私の場合、息を吹き返すために必要なぶんを、さらに思い出したんでしょうね。前世があると知って私は、今の私をしっかり生きようと思いました。前世の私は病気ばかりしていたから、死ぬのが怖くていつもおびえていました。今世でも変わらずそうでした。死ぬことにおびえるのと、生きることにおびえるのは同じです。でも私は、これからは意志を強く持って生きぬくと決めました。今世に生まれ落ちて新しく生きるチャンスを与えられたのだから。そして、姉だったからではなく、友人としての今の彼女のことを私は大好きです」

 ちらりと腕時計を見て、彼女はレターセットをバッグにしまった。

「こんな話におつきあいくださって、どうもありがとう」

「こちらこそ、素敵なお話でした」

 わたしはお辞儀をした。ブロンドの彼女は優雅に立ち去っていく。グレイスに今すぐこのことを話したいと心から思った。

 グレイスがわたしを理解してくれて、励ましてくれるのは、前世のつながりが深いからというだけじゃなくて、今のわたしを想ってくれているからだ。わたしがグレイスのことを大好きなのも。遠い遠い記憶でつながりながら、わたしたちはこの時代をともにしっかり生きていく。そして来世でまた思い出そう。今度は互いの髪や瞳がどんな色になっているかを楽しみに。

「待った?アツコ」

 マークが来た。近くで所用のあった彼と、このカフェで待ち合わせしていたのだ。

 マークがわたしの唇に軽くキスしてから椅子に座ると、散歩中の犬が寄ってきた。マークの足元でじゃれる。

「こら、ジャック。すみません」

 飼い主が犬をたしなめる。マークは「いえいえ」と犬をなでる。いつものことだ。

「マークって、ほんとうに犬に好かれるよね」

 わたしが言うと、マークは「うん。僕、前世は犬だったと思うんだ」と自信ありげに答えたので、わたしは文字どおり、目を白黒させた。