Colour No.8: Orange

 その小さなサンドイッチ屋さんは、ボタニックガーデンのそばにありました。店先のひさしと看板はオレンジ色で、白字で「Ralph’s Kitchen」と描かれています。ラルフ、それが店主の名前です。

 ラルフさんは毎朝、オレンジ色のエプロンをかけ、ハミングをしながら仕込みをします。ハム、レタス、トマト、スモークサーモン。粗く刻んだボイルド・エッグはたっぷりのマヨネーズとちょっぴりのマスタードであえて。今日はどんなお客さんが来るのかな。朝陽を浴びながら、わくわくと想像するこの時間が、ラルフさんにとって至福のひとときでした。

 もうすぐ40歳になるラルフさんは、年齢よりちょっとおじさんに見えるかもしれません。口元のおひげ、ぽっこり出たおなか、しょうもないギャグ好き。でも、お会計をすませてお店を出ていくお客さんに、必ず大きな声で「グッダイ!」とウインクするラルフさんの陽だまりのような笑顔は、みんなの心をあたたかくさせるのです。だって、いちいち想いがこもっていましたから。

ラルフさんに、奥さんはいません。恋人も……かつて、好きだった女性はいるのですけれどね。陽気なくせにシャイなので、想いを打ち明けることなく会えなくなって、それきりなのでした。家事が得意なラルフさんはひとりで暮らすのはさほど困らないけれど、ベランダの花が咲いたとき、「見てごらん!」と言える相手がいないことはさびしいな、と思っていました。

 Ralph’s Kitchenは、もともと、ラルフさんのお父さんが営んでいたパン屋さんを改造したものです。ラルフさんは学校を卒業したあと銀行に就職したのですが、2年前、お父さんが街の中心にもっと大きなお店を出すことになり、ラルフさんが銀行を辞めてこちらを引き継いだのです。ラルフさんは、お金をきっちりと数えたり管理したりする仕事も嫌いではありませんでした。でも今は、お客さんたちと友達みたいに仲良くなったり、「今日のトマトは艶が良くて美人だぞ」とか、「暑くなりそうだから、冷たいレモネードを多めに用意しておこう」とか、「紙ナプキンのデザインをちょっと変えてみようかな」とか、「数字」ではなく「自分が感じること」で仕事が動いていく、そんな日々が楽しくてたまらないのです。なんというか、「性に合っている」のです。もちろん、銀行での経験は、お金の勘定ややりくりに、とても役に立っていますけれど。

 

 オレンジ色は、ラルフさんやこの店にとって「トレードカラー」でした。これにはちょっとした想い出があります。

 まだ銀行に勤めていた3年前、アパートメントの隣室に住んでいたシンディという女性のことが、ラルフさんは好きでした。シンディは美しく聡明でした。おそらく、ラルフさんより5歳ばかり年下のようでした。シンディがどんな仕事をしていたのか、ラルフさんはよく知りません。ただ、シンディの玄関のドアが開かれたときや、暑い日にお互いの部屋の窓が開いているとき、やさしくあまい香りが漂ってくるのです。その香りを嗅ぐと、ラルフさんは平和のうちに満たされ、うっとりと目を閉じずにいられませんでした。花なのか香水なのかフルーツなのか、どれでもあるようでどれでもなく、じつに魅惑的でした。しかしラルフさんは、エントランスや道端でシンディに出会うことがあってもその香りのモトを尋ねることもできず、くだらない冗談を言ってシンディを笑わせてばかりでした。

 ある冬の朝、ラルフさんが出勤しようとアパートメントを出ると、シンディがブーツの紐を結びなおしていました。

「おはよう、ラルフ」

 座り込んだまま顔をあげたシンディは、蓮の花が咲くような清らかさで笑いました。ラルフさんはすっかりどぎまぎしてしまい、「今日は朝早くからお出かけかい」と言うのがやっとでした。

「そうよ、バスに乗って。ラルフは駅まで?」

 シンディは立ち上がり、自然と一緒に並んで歩くかたちになりました。最初はなんとか面白いことを言おうとしていたラルフさんは次第に恥ずかしくなり、黙ってうつむいていました。するとシンディは気まずいムードを和ませるように、弾んだ声でこう言ったのです。

「ねえ、心理テストです。何色が好き?」

 唐突に言われて、ラルフさんは戸惑いました。しかし、ふわりと鼻をくすぐるスイートな香りに引き寄せられるように、「オレンジ」と答えていました。

「どうして?」

 小首をかしげるシンディのかわいらしいことと言ったら。ラルフさんもつられて笑顔になり、続けました。

「楽しい色だから。赤ほど自己主張が強くないし、黄色ほど奇抜じゃない。人を明るく迎え入れて、元気でやさしい気持ちにさせてくれるから」

 シンディは一瞬、まばたきしたあと、「ええ、そうね」と微笑みました。

「これはね、『なりたい自分』なんですって。何色を選んだのかということよりも、その理由のほうに解答があるの。ねえ、ラルフ。今あなたが言ったオレンジ、『なりたい』っていうより、まさにあなたそのものね」

 シンディはどこか満足したように言いました。どう答えようか、ラルフさんは思いめぐらせましたが、言葉が見つかりません。額に汗をにじませて考えているうち、バス停に着いてしまいました。

 シンディがバス停に並び、ラルフさんもなんとなくそこを去りがたく黙ってシンディの隣にいると、すぐにバスがやってきました。何か、何か言わなくては。しかし、言葉を発したのはシンディでした。彼女は小さな声で、しかしきっぱりと、こう言いました。

「オレンジを目印にするわ」

 え? 目印? それはいったいどういう?

「またね、オレンジさん」

 口を開けたままのラルフの返事も待たず、シンディはバスに乗り込んで行ってしまいました。そして話もできないまま、彼女が引越したと他の住人から聞いたのは翌週のことでした。

 

 それから1年が経ち、ラルフさんがサンドイッチ屋をやることになったのと同時期にアパートメントの取り壊しが決まりました。なにせ、古い建物だったので仕方ありません。

 ちらりと、「もしもシンディが戻ってきたときに僕の居場所がわからないじゃないか」と、さみしい思いがよぎりました。アパートメントはシンディと自分をつなぐ唯一のスポットだったからです。でもすぐに、「なあに、大丈夫」と声に出し、微笑みました。そう、彼女が「目印」と言ったオレンジを店のトレードカラーにしようと思い立ったのです。

 実際、オレンジのひさしも看板もエプロンも、正解でした。地元の人からは時々、「Ralph’s Kitchen」ではなく「オレンジの店」と呼ばれました。ラルフさんはそれを歓迎しました。店の名前ではなくオレンジがラルフさんの目印であることを、とっても嬉しく思ったのです。この明るいオレンジをめざして、おなかをすかせた人々がサンドイッチを買いにやってくる。そう思うと、体の中心から幸福感がこみあげてきてたまらなくなって、背中に羽根が生えて飛んでいるような気分になるのです。

「シンディのおかげだな」

 閉店後の掃除を終えたあと、ラルフさんは久しぶりに彼女のことを思い出し、カウンターの椅子に座って目を閉じました。シンディの亜麻色の髪の毛や、陶器のような白い肌を心に浮かべ、自然と口元が緩むのを感じました。

 ふわり。あのなつかしい、やさしくあまい香りを嗅いだような気がして、ラルフさんは目をつむったまま深呼吸しました。

「見つけたわ」

 おや、今日は幻聴まで聞こえる……。ラルフさんはおかしくなって、ふふふ、と笑ったあと、ゆっくりと目を開けました。

 

 ええ、幻聴なんかではありません。ラルフさんの前に、3年前より少しだけ大人びた、シンディが立っていました。

「久しぶり、ラルフ」

「シンディ? 本物かな、うそみたいだ」

「本物よ。イギリスに行っていて、昨日シドニーに戻ってきたの」

 言いたいことがたくさんありました。ラルフさんは、その中で2番目に聞きたかったことを尋ねました。

「シンディは、何色が好き?」

 シンディは迷わず答えました。まるで訊かれるとわかっていたみたいに。

「ターコイズブルー」

「どうして」

「神秘的でしょ。魔法が使えそうだから」

 ああ、そうだね。ラルフさんはうなずきました。シンディはそっと近づいてきて、ラルフさんのエプロンの裾をいたずらっぽくつまみました。

「私の魔法、うまくかかったかしら」

 ラルフさんは思わず、大きく腕を広げてシンディをすっぽりと包み込みました。照れくさくなる前に。

「かかったよ。じゅうぶんすぎるくらい、かかった」

「それはよかった」

 シンディの香りが、ラルフさんの体にしみこんでいくようでした。ラルフさんは自分が泣いてるのか笑ってるのかよくわからないまま、もう一度ぎゅっとシンディを抱きしめてこう言いました。

「その魔法、解かないでいいよ。ずっとね」

 夕陽が窓から差し込んでいました。オレンジの光がふたりを照らして祝福していることをラルフさんが気付くのには、もう少しばかり、時間がかかりそうです。