はぐれたらキリンの前。そう決めて一緒に回っていたタロンガズーで、私は早々にひろゆきさんの姿を見失い、もう15分もキリンを眺めている。オーストラリア最大級の動物園はあまりにも広くて、探そうなんて気にもなれない。
ひろゆきさんはいいひとだ。やさしいし、家事を厭わないし、けちじゃない。私が失敗をしてもイヤミを言ったりしないし、レストランで店員にえらそうな態度をとらないところが、すごくいい。新婚旅行の行き先を決めるときも、私が「シドニーがいい」と言ったら、「いいね、ちょっと調べてみるね」と答えた。「どこでもいいよ」でも「シドニーなんてダメだ」でもなかった。そして本当に「ちょっと調べて」くれて、いくつかの旅行代理店とツアープランにめぼしをつけて提示してくれた。マメだ。
結婚式の朝に籍を入れ、式が終わってすぐ飛行機に乗った。シドニーに着いて2日目だから、私はまだ、ひろゆきさんの妻になって3日しかたっていない。妻。私は、ひろゆきさんの、妻。そう思うと、胸の奥のほうで、深い安堵と、それと同じくらい深い不安が広がって、私を侵食する。
キリンの首が、勢いよくしなった。こんなに長いと不便じゃないのかな。風邪をひいて喉が痛いときって、どこからどこまでつらいのかな。まばたきをすると、まつ毛がばさばさと音を立てているように感じる。さっきから、二頭のキリンがなんとなくそばにいて、話をするでもなく(当然だが)、見つめ合うでもなく、時折葉っぱを食べたり遠くのビルに視線をやったりしている。
「あら、まあ、オシャレさんだこと」
背後から声がして、振り返ると小柄なおばあさんがいた。隣にはまた、同じような背格好のおじいさんがにこにこしている。
オシャレさんとはもちろん私のことではなく、キリンを見て言っているらしい。
「体の模様もきれいだけど、しっぽがまたセンスあるわね」
「王冠をかぶっているようにも見えるよね」
おばあさんとおじいさんは、ほのぼのと会話を交わした。たしか、成田空港のロビーでも見かけたおふたりだ。私たちが旅行代理店から配られたタグをスーツケースにつけていたから、同じパックツアーに参加しているんだなと思った記憶がある。幸せそうなご夫婦。羨望のまなざしを向けている私に気づいたのか、おばあさんが私にほほえみかける。
「こんにちは。飛行機が同じだったわね」
「はい」
「お連れの方は?」
「それが、はぐれてしまって」
私はばつが悪くなってうつむいた。
「あらそう。新婚さん?」
「まだ3日目です」
それはそれは。おばあさんとおじいさんは、ぴたりと声を合わせてそう言い、笑った。背格好どころか顔も似ている。子供のころ読んだ絵本の「ぐりとぐら」みたいだった。あれは夫婦じゃなくて双子だったけど。
「こんな大きな動物園で迷子になったら、探すのも大変ね」
「いいんです。はぐれたらキリンの前って決めてましたから、このまま待っていればそのうち。よくあるんです、ふらっといなくなっちゃうの」
私は自嘲気味に笑った。そうなのだ。ひろゆきさんはいいひとだけど、時々、とらえどころがなくて自由すぎて、私は戸惑う。普段やさしいだけに、ぽんと放っておかれると意表を突かれる。とたんにざわざわと不安になるのだ。ほんとうは、私のことなんて、たいして好きじゃないのかもしれないと。
そして、あまり考えないようにしているけど、不安を呼び起こすもうひとつの要素は、彼がバツイチであることだ。知り合った時点で前の奥さんとは別居していたので、略奪したわけじゃないとずっと自分に言い聞かせてきた。この人と絶対結婚したいと思った。ここまで熱く何かを渇望したのは初めてだった。晴れてその望みがかなったとき、ふと、前の奥さんとはどうしてうまくいかなくなったのだろうとあらためて疑問を抱いた。ひろゆきさんに聞いてはいけない気がしたし、自分自身、聞きたくない気持ちもある。私には関係ないといえば関係ないことだ。
でも、最初はお互いに好きで結婚したんだよね。結婚式で「永遠の愛」を誓ったんだよね。運命の赤い糸で結ばれていたから結婚したはずなのに、どうして別れる夫婦がたくさんいるんだろう。私たちだってそうならないという保証はどこにもない。
「ふらっといなくなっても、いつもちゃんと戻ってくるんでしょう」
おばあさんが言う。私は顔を上げた。
「それはそうなんですけど。でも、シドニーに来てまでこれじゃ、心細いです」
「そうねぇ。でもこんなところに来ちゃったら、楽しくて珍しくて、思わず好奇心にまかせてあちこち走って行っちゃうのかもしれないわね」
うふふ、とおばあさんは笑う。そのやわらかな目元を見たら、するりと心がほどけた。
「おふたりは、結婚して何年なんですか」
「私たちはね、50周年。その記念に旅行にきたの。娘たちがお金を出し合って、プレゼントしてくれたのよ」
おばあさんがにっこり笑ったその唇とほぼ同じ角度で、おじいさんも口角を上げた。
私は「素敵ですねぇ!」と感嘆の声を放ったあと、旅先での気のゆるみからか、調子にのってこんなことを言ってしまった。
「50年もそんなに仲良くいられるなんて、運命の赤い糸で結ばれてたんですね」
とたんにおばあさんが真顔になる。
「運命の!」
その言葉におじいさんが続ける。
「赤い糸!」
そしてふたりで顔を見合わせ、くわあっと笑った。
「運命の赤い糸だなんて、まだこんなロマンチストなお嬢さんがいるんだなあ!」
おじいさんが言った。バカにするふうではなく、むしろ感激しているようなあたたかな物言いだった。おばあさんが照れくさそうに片手を振る。
「50年ずっと仲良くいたわけじゃないのよ。そりゃあ、いろんなことがありましたよ。結果として50年経ちましたという感じね」
「離婚したいと思ったことも?」
「あるある、ありますとも、何度もね。これからだって、どうなるかわからないわよ」
「……永遠の愛って、難しいことですか」
また「永遠の!」「愛!」なんて叫ばれるんじゃないかと思ったけど、ふたりとも、今度は笑ったりしなかった。
「そうね。とても難しいことでもあるし、とても簡単なことでもある。愛そうと決めて愛するのではないからね。愛は本来、すこぶる自由なものよ」
おばあさんは、キリンに顔を向けた。少し大きいほうのキリンが、もう一頭のキリンに首を寄せている。
「だから結婚式でわざわざ誓いたがるのかもしれないわね、人間は」
動物はわざわざ誓ったりしないのに。二頭のキリンはとんとんと軽く首をぶつけあい、たてがみをグルーミングしはじめた。
「理沙」
不意に名前を呼ばれて声のするほうを見ると、いつのまにかひろゆきさんが後ろにいた。
「ごめん、おもしろくてつい先に行っちゃったみたい」
おばあさんがひろゆきさんに笑いかける。
「3日目のご主人ね。こんにちは」
突然そんなことを言われたのに、ひろゆきさんは臆せず「こんにちは」と返す。彼のこういうところが、いつもすごいと思う。
「ひろゆきさんを待っている間、お話しててもらったの」
私が言うと、ひろゆきさんは「それは、ありがとうございます」とお辞儀をした。そしてご夫婦を交互に見て、「双子かと思うくらい、そっくりですね!」と朗らかに言った。
失礼じゃないかと内心ハラハラしたけど、おじいさんが「よく言われます」と大笑いしたのでほっとした。おばあさんが頬に手を当てる。
「なんだかねえ、いつのころからか、変な話なんだけど、血がつながってないってことに我ながらびっくりするようになってね。顔が似てるとかっていうのはどうでもいいのよ。血縁関係にないってことを、そういえばそうだっけ?と思うの。家系図なんかで一等親、二等親とかってあるでしょ、あれ、今でもいちいち驚くわね。私とこの人、ゼロ等親だっていうじゃない。一番血が濃く感じるのに」
ひろゆきさんは、わはははは、と声をあげて笑った。そうだ、笑うところだ。でも私はハッと胸をつかれて、笑えなかった。
赤い糸。それは、小指と小指をつなぐたよりない一本のことではなく、互いの体の中を駆けている血のことをいうのかもしれない。あらかじめ結ばれた線を手繰り寄せるのではなく、いろんな出来事を重ねながら、それぞれの中で脈々と流れるたくさんの赤い糸を共鳴しあっていく。そんなスペシャルな相手を、人はみな探し続けているのかもしれない。
人の好さそうなひろゆきさんの横顔を見上げる。明日のことはわからないけど、今、彼を愛していると思う。ひろゆきさんが私と目を合わせてほほえむ。血がめぐったのを感じる。これでいい、と私は自分に頷く。幸せだと思ったから。
運命じゃなくても、永遠じゃなくても、そして誓わなくても。