サムシング・フォーって知ってる?
プチトマトを口に運びながら理沙は言う。かつては「グルメツアー」と称してあちこち食べ歩きに出かけたものだが、結婚式を目前にした彼女はダイエット中らしい。久しぶりに会ったというのに、オーダーしたのはサラダとほうれん草のキッシュだけ。
私はシーフード・ドリアにスプーンをつっこみ、「マザー・グースでしょ」と答えた。理沙は大きな目をさらに大きくして「えっ、そうなの?」と驚いている。自分で振ってきたくせに。
古いもの、新しいもの、借りたもの、青いもの。結婚式で花嫁が身に着けると幸せになれるという言い伝え。マザー・グースの歌に由来している。歌には「靴の中に銀の6ペンスコイン」もあるのだが、そこは割愛されることが多い。
「さすが、やっちゃん。幼稚園の先生ってカンジ」
理沙は茶化したが、私は笑わずイカを咀嚼する。自分でも、大人げないなと思う。まだどこかで、理沙の結婚を祝福できない私がいる。
高校生のころから仲が良くて。
なんでも話せて。
いろんなことを共有して。
「彼氏いない歴」まで、なんだか似通っていて。
35歳のクリスマスをふたりで迎えたとき、60歳になってもお互いに独り身だったら一緒に住もうね、と笑いながら約束した。あれから3年が経つ。
2年前(つまり、「約束」から1年後だ)、付き合っている人がいると聞かされた。内心、「くそー」とは思ったものの、そこはまあ、友に春が訪れたことを喜ぼうという気持ちにはなった。ただ「彼、離婚調停中なの」という言葉に、胸がざわついた。「でも、奥さんとは、私と出会う前から別居してて…」という理沙の話をさえぎって、私は一刀両断してしまった。
「だめだめ、やめなさい、そんな男、絶対口だけよ、どうせ離婚なんてしないわよ。もうすぐ30代も終わるっていうのに、何やってるのよ」
私がまくしたてると、理沙はぽつんと言ったのだ。
「やっちゃんには、わからないよ」
ショックだった。理沙のことはなんでもわかっていると思っていた。私のことも、わかってもらえていると。
「やっちゃんはいいよ。手に職があるもの。幼稚園の先生なんて、年とればとるほど信頼されるじゃない。私は派遣の事務だもん。これといった特技も資格もないし、いつ切られるかドキドキしながら過ごしてるんだよ」
「資格なんて、取るか取らないかでしょ。理沙も、今からだって勉強して何か手に職つければいいじゃない。結婚に逃げようなんて甘いよ」
「そうじゃなくて……。私、彼のことが」
「離婚調停中ってことは、まだ既婚者じゃないの。それって不倫じゃない。結婚をエサに、だまされてるんじゃないの?」
理沙は黙っていたが、少しして、さみしそうに笑った。
「やっぱり、やっちゃんにはわからないと思う」
そうだね、わからないし、わかりたくもないよ。そう思った。私が楽して好きなことやってるような口ぶりが気に入らなかった。私だっていろいろあるのに。仕事だって、自分が努力した結果なのに。
それから気まずくて、連絡を取り合わなくなった。彼の離婚が成立したと、年賀状にさらっとしたためられていた。2カ月前、「結婚が決まった」と電話をもらって、なんとなく和解した。そして今日、久しぶりにランチをしている。式は来月だ。
「サムシング・フォーのうち、3つは揃いそうなの。古いものはお母さんの真珠のネックレスで、新しいものはレースのハンカチでしょ、借りたものはお姉ちゃんが結婚式のとき使った長手袋。あとひとつ、青いものが決まらなくて」
青いもの。たしかに、白づくめのウェディングドレスに青いアイテムは想像しにくい。マリッジブルーでも胸に抱いてればいいんじゃないの、と醜い悪態を思いついて私はさすがに自分を戒める。理沙は少しだけ身を寄せて小声になった。
「見えないところに着けるのがいいらしいの。海外ではガーターベルトに青いリボンを飾るっていうのが主流らしいんだけどね」
「ガーターベルト?」
「そう。だけど私、ガーターベルトなんて実物を見たこともない」
理沙は頬を赤らめる。べつに、いやらしいグッズというわけでもないのに、こういう「おぼこさ」が理沙らしい。
「チャレンジしてみたらいいじゃない、初めてのガーターベルト」
私が笑うと、理沙はぷるぷると大げさに手を振った。
「やだ。そもそも、青って好きな色じゃないし。なんだか冷たくて」
「そう? 私は好きだけどな。道徳的で誠実って雰囲気」
「やっちゃんらしいね」
理沙は一呼吸おいた。おかしな間ができて、私はドキンとした。ふたりとも明らかに、あのケンカになったときのことを思い出している。そこに食後の紅茶が運ばれてきて、少しの間、沈黙ができた。
2口ほど紅茶を飲んだあと、理沙が静かに言った。
「前さ、私、やっちゃんにはわからないって言ったことあったでしょう」
「うん」
「あのときは、卑屈な言い方しちゃって、ごめんね。ずっと気になってた」
「……ううん」
「私はずっとずっと、やっちゃんがうらやましかったんだ。高校のころからやっちゃんは、いつも自分のやりたいことがわかっていて、ちゃんとその道を選んで、ずんずん歩いてた。私はなかったの。渇望して胸が熱くなるようなこと。私、頭悪いからうまく言えないけど、それって、自分で決められるものじゃないんだよ。これをやりたいとかこれを欲しいとか、こうなりたいとかって、なんていうか、宇宙の意志なんだよ」
宇宙の意志。私は驚いていた。こんなに強い口調でしゃべり続ける理沙を初めて見た。
「でも私ね。彼と出会って、初めて、この人が欲しいってすごくすごく思ったの。たしかに道徳に反していたのかもしれない、でも、この人とどうしても結婚したいと思ったの。他の人じゃ、ダメだったの」
理沙の目が光っている。彼女はその「宇宙の意志」をもって、手に入れたのだ、と思った。本当に本当に欲しいと願ったものを。離婚調停中という、ただそれだけの言葉に私は聞く耳を持たずに過剰反応してしまったけれど、きっとふたりにはふたりの事情や想いがあって、たくさんの時間を真剣に向き合ったのだ。
「でもさ、欲ってすごいよね。欲が欲を呼ぶんだね。彼の奥さんになりたいって、ただそれだけを願い続けてきたのに、それがかなうとなったら今度は……」
理沙は少し躊躇したあと、小さく、でもはっきりと言った。
「私、お母さんになりたい」
欲張りすぎだよね、と理沙は肩をすくめる。
なんで? 自然な感情だし、だいたい欲張りの何がいけないの、と言おうとしてやめた。ああ、そうか、と私は悟った。私はやっぱり、理沙のことがわからないかもしれない。理沙が私のことをわからないように。でも、これだけはわかった。「理解すること」と「同じ気持ちになること」は違うのだということ。
私は伝票をつかんで立ち上がった。
「出よう。これからデパート行こう」
私はデパートのランジェリーショップで、青いシルクのパンティを買った。理沙に有無を言わせなかった。
「見えないところのサムシング・ブルー、プレゼントしてあげる。ガーターベルトは抵抗あっても、パンティなら履けるでしょ」
ラッピングした紙袋を渡すと、理沙の顔にふわっと笑みが浮かんだ。
「ありがとう。サムシング・フォー、これで揃った」
「青はねぇ、聖母の色なんだよ」
私が言うと、理沙ははっとこちらを見た。
「マリア様の色。マザー・テレサの修道着に入ってる青いラインはその象徴なんだって。だから冷たい色なんかじゃないよ」
「そうなんだ……」
理沙はため息まじりにつぶやいた。私は続ける。
「手ごわいよ、子供って。手ごわくて、かわいくて、おもしろくて、かよわくて、たくましくて、手も目も離せないのに、そうかと思うと知らないところで勝手に育ってて。お母さんになりたいなら、うんと欲張りになって、何があっても絶対に守り抜くんだって覚悟を決めな。それができたら、このパンティの中にあるあんたのおなかに来てもらいなよ」
理沙は紙袋をぎゅっと抱いた。40歳間近には思えないくらいあどけない笑顔で。
「理沙が最初に彼の話をしてくれたとき、頭ごなしに反対してごめんね」
私が謝ると、理沙は何度も首を横に振った。私はあらためて彼女に向き直る。
「おめでとう」
やっと言えた。心から。
結婚式が終わって10日後、新婚旅行先のシドニーからポストカードが届いた。
「こちらはお天気に恵まれて最高に楽しいです。絵葉書の写真のとおり、空がほんとうにきれいだよ!」
そこに映っている空を見て、思わず頬がゆるむ。ぬけるようなスカイブルー。その美しい青を、私はピンで壁に留めた。