Colour No.3: Pink

「エナせんせい、おててみせて」

 麗美ちゃんにせがまれて、私はちょっとだけ躊躇した。くりくりした瞳が私を見上げている。朝、幼稚園に登園してきてお母さんの姿が見えなくなったとたん、麗美ちゃんは待ちきれなかったというように私めがけて飛んできたのだ。

「おてて、ね。はい」

 私がぱっと手を広げると、麗美ちゃんの顔に落胆した表情も広がった。

「ピンク、もうぬらないの?」

 私は答えず、微笑んで見せる。

「うん、もうぬらないの」

「なんで?」

 ダメって言われたから。

 その言葉を飲み込んで、私は麗美ちゃんの手をつなぐ。

「あっちで絵本読もうか」

 麗美ちゃんは頷いたけど、きっと納得していない。宙に浮かんだままの「なんで?」が、ふわふわと漂いながら私にまとわりついていた。

 

 1週間前の月曜日だった。

 週末に友人の結婚式に参列した私は、久しぶりに塗ったネイルをオフするのを忘れて出勤してしまった。短大卒業後、幼稚園教諭の仕事に就いて一年がたち、ちょっと気が緩んでいたのかもしれない。

 一応、ネイル禁止という規則はない。でもそれはなんとなく暗黙のルールになっていて、ネイルはおろか化粧もしてこない先生もいる。

 ネイルの色はピンクだった。そんなに派手な色ではない。爪は短く切りそろえてあるし、ストーンやラメをつけているわけじゃない、安全だ。今日だけ、ごまかして過ごそう。先生や園児の視界に手がなるべく入らないよう心がけながら、私は午前中を乗り切った。

 お弁当の時間だった。私が牛乳の入ったコップを配っているとき、麗美ちゃんが「わあ」と声をあげた。

「エナ先生、おててキレイ」

 はっと手をひっこめようとしたがそうもいかない。配らなければならない牛乳のコップがまだトレイに載っていた。他の先生に聞こえていないのを確認すると私は、「ありがとう」とだけ微笑み、急いでコップをテーブルに置いた。

 麗美ちゃんの隣に座っていた拓海君が言う。

「ママもやってるよ。爪にお絵かきしてくれるお店があるんでしょ」

 それを受けて、向かいにいたカンナちゃんも食いつくように私の指に見入る。

「エナ先生もお店でやってもらったの?」

 こうなるともう逃げられなかった。

「ううん、お店じゃなくておうちで、自分でやったよ」

「自分でできるの?」

「できるよ、簡単だよ」

 私はコップを配り終え、ひきつった笑顔だけ残して退散した。

 帰り際、麗美ちゃんがおずおずとやってきて、ささやくように言った。

「エナ先生、また明日もおてて見せてね」

 はにかむように私を見上げる麗美ちゃんを見て、私は「あっ」と声をあげそうになった。でもそれをこらえる。

「……うん、明日ね」

 私は翌日も、その次の日も、ネイルをつけたまま出勤した。

 

 泰子先生に呼ばれたのは、その週の木曜日だ。

 泰子先生は勤務15年のベテランで、「化粧をしない先生」だ。眉毛さえ描かない。いつも高圧的で、私は最初からなんとなく彼女に好かれていないだろうなと感じていた。事務室でふたりになり、緊張のあまり震えて歯がかちかちとなりそうだった。

「あなたねぇ、手、見せてごらんなさいよ」

 前置きもなく、第一声、それだった。言われるまま右手を差し出すと、泰子先生は乱暴に私の指をつかんだ。

「何考えてるの、マニキュアなんかして!」

 汚いものを捨てるように、私の手をはらう。

「カンナちゃんのお母さんから苦情がきてるのよ。あなたのせいで、カンナちゃんが爪にマジックを塗って困るって。あなた、子供たちに、お店に行かなくても自分で簡単にできるって言ったらしいわね。どうしてそんなけしかけるようなことするの」

「けしかけたわけじゃ……」

「言いわけはよして。他のお母さんたちだって気づいてるわよ。あなただけじゃなくて園全体の印象が悪くなるのよ?」

 私は奥歯をかみしめて泣くのをこらえた。こういうとき、何も言い返してはいけない気がした。

「仕事が終わったら彼氏とデートでオシャレしたいんだろうけど、仕事は仕事、プライベートはプライベートできっちり分けなさい」

 違う。ぜんぜん違う、違います。否定したいのに、何も言えなかった。私がどうしてネイルをオフしなかったか、その理由が「正解」なのか自信がなかったからだ。

「……すみませんでした」

 やっとのことでそれだけ言い、私はぎゅうっと拳をにぎった。ピンクの爪を隠すみたいに。

 

 いい女は先っちょを見ればわかるのよ、と従姉妹のコハルちゃんが言ってたっけ。

 毛先とかつま先とか。先っちょがキレイな女の人って、中身もキレイで満たされてるのよ。

 東京でネイリストをしていたコハルちゃんは、今、オーストラリアで働いている。ワーキングホリデーで渡豪して、シドニーのサロンでビジネスビザを取得したらしい。

 オーストラリアかぁ。

 ワーキングホリデーかぁ。

 ソファに寝転がって、スマホをいじる。裸になった爪が左右に動く。検索サイトで「オーストラリア」「ワーキングホリデー」と打ち込んだあと、何の気はなしに「ネイリスト コハル」とやってみたら、シドニー在住の日本人向け情報サイトにたどりつき、コハルちゃんがインタビューを受けていたのでびっくりした。

『自分に何ができるかということよりも、自分が何をしたいのかを定めることのほうが大切だと思います』

 コハルちゃんって、アグレッシブになったよなと思う。前はどちらかというとおどおどしてて、言いたいことが言えないタイプだった気がする。私みたいに。

 オーストラリアがコハルちゃんを変えたのかな。スクロールしながら、ぼんやりと思いを馳せる。

 辞めちゃおうか、幼稚園。

 コハルちゃんもいるし、私もワーキングホリデーで行ってみようか、オーストラリア。

  

 麗美ちゃんが引っ越しすると園長から聞かされたのはそれから1ヵ月後だ。

 お父さんの急な転勤で、来週にはもう退園するという。

「エナ先生」

 お迎えのとき、麗美ちゃんのお母さんから呼び止められた。普段口数が少なくて控えめな彼女から、声をかけられたのは初めてだった。

「麗美ちゃん、お引越ししちゃうんですね」

「ええ、お世話になりました」

 3秒くらいの間があって、何か言わなくてはと思ったところでお母さんが口を開いた。

「……エナ先生。麗美ね、爪噛みが治ったんですよ」

 お母さんが静かな笑みをたたえて言う。

「あの子、前は指の爪ぜんぶ噛んでしまって、ひどいときは血が出るくらいで……。悩みました。育児書を読むと、やめなさいと叱ってはいけないとか、愛情不足が原因だとかって書いてあるし。こんなに大事に想ってるつもりなのにどうしてって、まるで自分が責められているようにも思いました」

「………」

「1ヵ月前、エナ先生の爪がきれいなピンクしてるって、うれしそうに話してました。麗美もあんなきれいな手になりたいって。だから爪はもう噛まないって、自分から」

 麗美ちゃんのお母さんは声を震わせる。私も胸がいっぱいになって、涙がこぼれそうだった。ああ、よかった。私の願いは通じていた。

「ありがとうございます」

 深々とお辞儀をするお母さんに、私はしどろもどろになって言った。

「でも、私、すぐにネイルとっちゃったから、麗美ちゃんガッカリしたんじゃないかと思います」

 お母さんは身体を起こす。

「いいえ。先生はピンクの色をとっても、やっぱりきれいなピンクの爪してるって言ってました」

「え?」

「だから私、麗美をいっぱい抱きしめながら言いました。そうだね、体が元気で、いつも笑顔でやさしい気持ちでいたら、麗美もエナ先生みたいなピンクの爪になるよって。嘘じゃないでしょう、爪って、健康のバロメーターですもんね。……私、夫がほとんど家にいなくてキリキリしてたなぁって気づきました。転勤先では、もっと家族一緒にいられると思うんです。私も麗美と一緒にきれいな爪になれるように、元気で、笑顔でいたいと思います」

 お母さんが笑ったときの目元は、麗美ちゃんによく似ている。

 おかあさーん、と麗美ちゃんの明るい声がして、こちらに向かって走ってくるのが見えた。

 

「そういうこと」

 振り返ると泰子先生がいて、私は思わず「ひっ!」と叫んでしまった。

「そんな、お化けみたいに驚かなくても。挨拶しようと思ってさっきからそばにいたけど、出て行ける雰囲気じゃなかったから」

「す、すみません」

「……悪かったわね、一方的に怒鳴ったりして」

 泰子先生がいつになく穏やかな口調で言うので、私は面食らってしまった。沈黙をどう受け取ったのか、泰子先生は続ける。

「私も経験があるの。あなたぐらいのころ、色付きのリップクリームを塗っててね。口紅ってほどじゃなかったんだけど、子供を抱っこした拍子に、シャツについてしまって。男の子だったの。その子のお母さんからいかがわしいって非難されたわ」

「そんな……」

「ううん、私が圧倒的に悪い。だからなるべく、体に色をつけないようにしてきたのよ。ノーメイクよりちょっとお化粧してたほうが身だしなみとしていいって言うお母さんもいるけど、いろんな考え方があるからね。今回のネイルも麗美ちゃんの爪噛み治しに一役買ったけど、他の子たちやお母さんたちすべてに受け入れられることかどうかは、わからないし……難しいわね」

 私は頷いた。不思議なくらい心が落ち着いていた。

「ひとつひとつが勉強ですね。でも、泰子先生にご指摘いただいてネイルをオフしたことで、麗美ちゃんがお母さんといいお話をすることができて、良かったと思います。ありがとうございました」

 私が言うと、泰子先生は「あら、生意気」とちょっとおどけたような表情を見せた。

「私、ずっとエナ先生のこと気になっちゃって、つい厳しすぎること言ってたかもしれないわ。あなた、私の若いころに似てるのよね」

「え」

 反射的に体がのけぞる。

「なに嫌がってるのよ!」

「嫌がってませんよ!」

 私たちは笑い合った。そんなことは初めてだったけど、ほんとうは私も、もうずいぶん前からこんなふうに話したかったような気がする。

 ああ、定まった、と私は思った。

 今は仕事を辞めない。しばらく、ここでがんばる。「自分のしたいこと」が、まだこの幼稚園にたくさんある。

 泰子先生と並んで、帰っていく親子たちを見送る。また明日ね、元気で会おうね。

 麗美ちゃんが門でくるりと向きを変え、私に大きく手を振ってくれた。