Colour No.2: Yellow

 おいしそうに見せる基本の5色。

 カフェで読み込んだ弁当づくりの本にはそう書いてあった。赤、緑、黄色、茶色、黒。赤のプチトマトは入れるだけだから楽勝。緑のブロッコリーは、茹で具合に自信はないけどそんなに難なくいけるだろう。黒は海苔、小さいおにぎりを作るとして、茶色はウィンナーを炒めればいい。よくわからないけど、切り目を入れればタコだとかカニだとかになるはず。

 黄色。

 そう、問題は、黄色。黄色い食べ物って、そして弁当って、もうアレしかない。

「あらー、珍しい。今日はママがお迎えなのねぇ。たっくん、よかったねえ」

 幼稚園を出ようとしたら舌ったらずな若い先生が通りがかった。ぴくっと身体が震えたが、揶揄ではないと自分に言い聞かせる。拓海は靴に足をつっこみながら「おとうさん、キョートなの」と得意気に答えた。

「キョート? 旅行なのかな?」

「ううん、おしごと!」

「へえ、パパ、お仕事始めたの?」

 エミだったかエリだったか、先生の名前が思い出せないまま私は「仕事ってほどじゃないんですけどね。じゃ、失礼します」と愛想笑いをしながら拓海を外に押しやった。

「たっくんちはトーキョーで、おとうさんはキョート。トーキョーとキョート」

 拓海は覚えたての地名をうれしそうに唱えながら飛び出していく。5歳児の頭は、このごろ著しく吸収力がいいらしい。

 夫の輝也は絵を描いて暮らしている。絵を「売って」ではない。「描いて」いるばかりだ、今のところは。知り合ったときは同じ広告代理店で働く、2つ年下の部下だった。

 結婚するまぎわになって、彼は「僕、絵を描きたいんだよ」と言い出し、「もしできるなら、会社を辞めて家事を受け持ちたい」と懇願した。

 一応「ええーっ」とは驚いて見せたが、私は内心ラッキーと思っていた。ずっと実家暮らしに甘んじていた私は、それまで茶碗を洗ったこともなく、炊飯器のスイッチさえ押したことがなかったのだ。家事なんかより仕事のほうが百倍楽しい。「売れない絵描き志望を食わせるキャリアウーマンの妻」でいられるなら、これで大義名分ができたというものだ。

 かくして私はますます仕事の鬼となり、輝也はかいがいしい主夫となった。料理がうまく、シーツまでアイロンしてくれて、部屋はいつも整っていた。私が妊娠して産休の間も、彼は私をそれはそれは大事に扱ってくれて、拓海が生まれてからは私がしっかり睡眠をとれるように時々私だけ別室で寝させてくれた。母乳の出が悪かったのもあって早々にミルクに切り替え、仕事の復帰を早めたので、私は拓海を育児しているという実感があまりない。立ったとか歩いたとか、記念すべき瞬間に立ち会うことも一度もなかった。幼稚園に入り、手作りが強要された手提げバッグも上履き入れも、輝也は厭わずに(むしろ嬉々として)まるで売り物のような完成度の高さでそれらを作り上げ、私は「こういうのが苦手なママたちを相手にこれを商売にしたら」と提案してみたのだが「そんなに上手じゃないよ」と一笑された。欲がない。輝也がその気なら私がプロデュースするのに。

 ともかく、我が家は完璧なコンビネーションで成り立っていたのだ。ほんの一カ月前までは。

 

 ブログに載せた輝也の絵が「独特でユニークだ」と評価されて、読者が増えたりコメントがきたりしているのは知っていたが、まさかグループ展に誘われるほどだとは思っていなかった。京都のモノ好きなギャラリーのオーナーが、まだ世に出ていないイラストレーターを5人ほど集めて展覧会を開くからやってみないかと声をかけてくれたのだ。

 私は最初、だまされてるんじゃないかと疑ったが、交通費も宿泊費も出ないけど「参加費」のようなものを取られることもなく、私がネットを駆使して調査したところによると、このようなイベントはこのギャラリーでこれまで何度も行われているようで、有力な人脈があるのかここから花開いた人も少なくないらしい。

「グループ展自体は金・土・日だけど、搬入とか打ち合わせとかあるから、木曜の朝に拓海を幼稚園に送ってその足で京都に行きたいんだ。だから、木曜日のお迎えと、金曜日の送迎と弁当をお願いできないかな。日曜日の最終で帰ってくるから」

 私はすぐに「いいよ」とは言えなかった。「仕事あるし、無理」という非情な言葉が喉元までせりあがっていた。私が黙っていると、輝也はとりなすように言ったのだ。

「交通費とかホテル代とかなら、僕、自分の貯金から出すよ。朝美が働いてくれたお金は一銭も使わないから、お願い」

 絶句した。輝也はもしかしたらずっと「外で仕事をしていない自分は好きなことを我慢しなくてはならない、生活費を自分のことに使ってはいけない」などと思いながらつましく暮らしていたのだろうか。ひょっとしてこれまでも、絵を描くのに必要なものはすべて、貯金をくずして買っていたのだろうか。

 私は思わず「そんなのいいよ、出してあげるから使いなさいよ」と言ってしまった。そしてその直後に、はっとした。「出してあげる」。不遜な自分に気づく。

「いや、ほんとに。お金のことはいいから、拓海のことお願いできる?」

 うん、まあ……。口ごもりながら承諾したが、私はその時点で悶々とした不安に憑りつかれていた。送迎はその日だけ仕事をやりくりすればなんとかなるだろう。輝也がいない間の食事も、外食なりデパ地下の惣菜なり、どうとでもできる。

 問題は金曜日の弁当だ。

 赤、緑、黄色、茶色、黒。どうにも逃げられない卵焼き。

 

 ファミレスで夕食をすませて帰宅したあと私はキッチンに立ち、フライパンを片手に特訓に入った。「卵焼きの作り方」は、本でもネットでもたくさん見て頭に入れたはずなのに、どうしてだかうまくいかない。ふっくらせずぺたんこだし、卵がフライパンにひっついてきれいに巻けない。おまけに、レシピによって卵に入れるのは塩だったり砂糖だったり醤油だったり、あるいは片栗粉や牛乳と書いてあるものもあって、うちの卵焼きはどうなのかわからない。でもそんなことを輝也に電話して聞くのも憚られた。

 キッチン台の上に、崩れまくった卵焼きがどんどん並んでいく。リビングでテレビを見ていた拓海がやってきて「うわー!」と声をあげ、無邪気にこう言った。

「これ、なんていうお料理?」

 その言葉に私はがっくりと脱力し、無言で新しい卵をボウルに割る。テレビからアニメの主題歌が流れてきて、拓海は歌いながらリビングに戻った。

 シャカシャカと卵を混ぜているうち、視界いっぱいの黄色がだんだんぼやけてきて、自分が泣いているのだと知って驚いた。

 なんで、なんで。なんで卵焼きくらい満足に作れないのだろう。

 子供のころから一生懸命勉強して、大人になったら一生懸命就職活動して、会社に入ったら一生懸命仕事して、ずっと優秀だ優秀だと言われてきたのに。女なのに、母親なのに。

 仕方ない、私はずっと、逃げてきた。母に、輝也に、一切の家事をまかせて、仕事に逃げてきた。みんながなんでもなくできることができないコンプレックスから逃げてきた。

 どうしよう、輝也の絵が売れるようになったら。どうしよう、家にいてくれなくなったら。絵なんか売れないで。誰にも認められないで。ずっと私と拓海のそばにいて。涙がつつっと流れ落ちた瞬間、スマホが鳴った。輝也だった。

「お父さんだから、出て」

 私は拓海にスマホを渡す。拓海ははしゃぎながら電話に出た。

 もしもし、おとーさん! うん、うん、そうなの、ハンバーグ食べたよ。

「すごいんだよ。おかあさん、お料理してるの。あのね、菜の花畑みたいなの。すっごくきれいでおいしそう!」

 はっと顔を上げる。菜の花畑? 黄緑色の皿を使ったから、拓海にはそんなイメージが沸いたのかもしれない。ボロボロの卵の群が、突然報われてほほ笑んでいるように見える。

 拓海は「おかあさん、おとうさんが代わってって」とスマホを差し出した。

「朝美? すごいじゃん、何作ってるの」

 輝也のやさしい声に、私はこらえきれず息を漏らした。拓海に聞かれないように奥の部屋に移り、小さな声でしゃくりあげながら伝える。

「卵焼き……ぜんぜんうまくできないよ。ちゃんと形にならないし、なんかべとべとしてるし」

「明日の弁当の? 練習してるの? いいじゃん、炒り卵でもゆで卵でも」

「ダメなの! 卵焼きじゃなきゃ。去年、幼稚園でもらった拓海のバースデーカードに、好きなものは卵焼きって書いてあったでしょ、卵焼きがないと絶対がっかりするよ」

 輝也は一瞬黙ったあと、穏やかに言った。

「どのフライパン使ってる?」

「え? 壁にかけてあった赤くて丸いの…」

「それ、古くてテフロンはがれちゃってるから卵がくっつくでしょ。ごめんね、場所がちょっと違うからわかんなかったと思うけど、卵焼き用の四角いのがあるんだ。シンクの下の扉開けてみて。青い柄だよ」

 言われるままシンクの下を開けたら、あった。

「最初によーく熱してね。卵を落としたときにじゅって音がするくらいだよ。調味料は塩ひとつまみでOK。油は少量、直接じゃなくて、キッチンペーパーに含ませて引いて。たぶん、ひっくり返すタイミングがちょっと早いんだと思う。待ってるから、ちょっとやってみ」

 ネットの「じょうずな卵焼きの作り方」にもそんなようなことが書いてあったからそうしたはずだが、不思議と、その四角いフライパンを使って輝也の言ったとおりにやってみたら、信じられないくらいきれいな卵焼きができた。角をうまく使うと、形もととのえやすい。100点とはいえないけどそこそこ合格だった。

「な、なんか、できたみたい」

「でしょ。合った道具があるんだよ」

 そう言われて気持ちがほぐれる。ありがとう、と言おうとしたら、輝也のほうから「ありがとうね、朝美」と先を越された。

「朝美のそういうまじめで純粋なところ、好きだよ。がんばったね。でも無理しないでね」

 今度は私が一瞬黙り、そしてゆっくり答えた。

「ありがとう。輝也の絵、たくさんの人に見てもらえるといいね」

 ちょっとずつ、家事もできるようにがんばってみるね。そんな言葉も浮かんだけど、今日のところはとりあえず、胸にしまっておくことにした。

 気がつくとキッチンに拓海が入り込んでいて、「これ食べていい?」と問いかけてくる。出来損ないの卵焼きを指さしているその小さな手は、菜の花にとまったモンシロチョウみたいだった。