Colour No.1: Brown

 僕の好きなその人は、ココアさんという。

 ほんとうの名前は知らない。僕が勝手にそう呼んでいるだけだ。

 僕が勤めているカフェの、窓際、隅の席。半年くらい前から、彼女はひとり で来て、そこを選んで座る。オーダーはいつも同じ。

「ホットココアを、お願いします」

 メニューには「ホットチョコレート」と書いてあるのに、彼女は決まってそう言うのだ。

 雨あがりの雫みたいな瞳で僕を見上げて、肩まで流れる栗色の髪を揺らせて 。

 

 ココアさんが来店するのは2週に1度で、昼過ぎから夕方まで3時間くらい いる。そしてだいたい、長いエアメールを読んだり書いたりしている。英語の ペーパーバックを読んでいることもある。僕は英語なんて、てんでわからない 。「手紙」というものを書いたのも、いつが最後だったか思い出せないくらいだ。だから彼女が異国の地に向けて日々の出来事や気持ちを伝えたり、あちら 側から受け取ったりしていることが、まるでおとぎの世界で起きているように 感じる。トレーシングペーパーみたいに薄い便箋、トリコロールが縁取りされ た封筒。このIT時代に手書きっていうこと自体が新鮮なのに、こんなレトロな アイテムを愛用しているココアさんは、ますます現実離れして見える。横を通 ったときにちらりと目を走らせたら、彼女は万年筆で美しい筆記体をつづって いた。どんな魔法の呪文が書かれているんだろう。

 僕の世界ときたら、賃貸アパートのワンルームと、このカフェだけだ。でも 、部屋は古くて狭いながらも日当たりが良くてガスコンロなのがとても気に入 っているし、高校を卒業して2年間フリーターだった僕を正社員として雇って くれた店長には感謝しているし、何より、このカフェのことを愛している。店 長から少しずついろんなことを任せてもらえるようになって、僕はきっとこの 店を日本一にするんだ。そう決めたんだ。

 そしてココアさんがここに来てくれるかぎり僕の願いはかなうような、そんな気がして、僕は心をこめて彼女にとびきりおいしいココアを捧げる。

 

 今日のココアさんは見るからにぐったりしていて、肩を落としながら店に入 ってきた。タイミング悪く、彼女のお気に入りの席には先客がいた。ココアさ んは、その席でしきりにタブレットをいじっているキャリアウーマン風の女性 に目をやったあと、中央の空いているテーブルについた。

 僕が水とメニューを持っていくと、ココアさんはいつものようにホットココ アを注文し、じっとうつむいていた。レターセットも、万年筆も、ペーパーバックも出さなかった。何もないテーブルの端を、ただただ凝視している。僕は 見てしまった。はらり、と涙が彼女の頬を伝うのを。

 

 たぶん、ココアさんは僕より2つか3つか、もしかしたらもっと年上で、英 語がペラペラで、外国に長期間、あるいは何度も行っていて、身なりからして おうちがお金持ちで、その、あまり考えないようにしていたけどエアメールは 遠距離恋愛中の恋人と交わしているラブレターで、それについて僕がジェラシ ーを感じるのもおこがましいほど遠い人だ。

 でも今、僕は、触れるのも可能なくらい近くにいて、できることなら彼女の 涙をぬぐいたいと思っている。大丈夫だよって、肩に手を置きたいと思ってい る。

 おとぎ話じゃないんだから、そんな奇跡は絶対、起こらないけど。何が大丈 夫なのかも、よくわからないけど。

 カフェ店員と常連客。エプロンを外せない僕が、ココアさんにできることと いったら……できることといったら……。

 

 ばさばさっと音がして、本が2冊床に落ちた。キャリアウーマン風のお客さ んが舌打ちをしながら拾う。「あらやだ、こんな時間」。お客さんは腕時計を 見ながらひとりごちて本を鞄にしまい、急ぎ足でレジに向かった。

 僕も迅速に会計をすませ、トレイを持って隅のテーブルに走る。アイスコー ヒーの入っていたグラス、半分減っている水のコップ、おしぼり、ストローの 袋。「片づけ選手権」があったら優勝できるんじゃないかというくらいのハイ スピードでそれらをトレイに載せ、テーブルを拭いた。

 

「空きました」

 うわずった声でココアさんに言うと、彼女はきょとんと顔を上げた。余計な お世話だったかと、僕はあせって続ける。

「あの、好きな場所にいるだけで、元気になることもあると思います」

 ココアさんは3秒ほど、びっくりしたような表情でいつもの席を見た。そし て、ふっと息を吐くようにして笑った。

「ありがとう。そうかもしれないわ」

 

 ココアさんは席を移り、少しの間、窓の外を眺めていた。そしてココアを一 杯飲みほしたあと、珍しくお代わりをしてくれた。

 2杯目のココアを運んでいくと、彼女はいつものようにエアメールを書き始 めていた。テーブルにカップを置こうとした瞬間、突然「ねえ」と声をかけら れ、びくっとして手元が狂ってしまった。ひっくり返しはしなかったものの、 揺さぶられたカップからココアが数滴飛び散る。

「す、すみません、すみません!!」

 あろうことか、便箋にココアが少しだけこぼれていた。僕はさーっと血の気 が引くのを感じながら、ペーパーナプキンで拭こうとした。

「あ! 待って!」

 ココアさんの手が僕の手に重なる。今度は魚みたいに心臓が跳ねた。

 

「ほら、見て。ハートみたい」

 ハート?

 そう言われてよく見ると、少々いびつだけど、たしかにココアが茶色くハー トをかたどっていた。

「おもしろーい。このまま送っちゃおう」

 ココアさんは、あはは、と大きな口を開けた。こんなふうに笑ったりするんだ。僕の中の魚は、さっきからぴょくぴょくと元気よく跳ねまわっておさまら ない。

「日本は夏だけど、シドニーはもう冬よ。ホットココアでお温まり下さい、っ て書いておくね」

 僕は知った。おとぎの世界じゃなくても、奇跡は起こる。楽しそうなココア さんの顔が、僕だけに向けられている。茶色のハートのすぐそばに記された文字。英語のできない僕でもわかるよ。「My dear best friend, Mary」。なんで泣いてたのかはわからないけど、とりあえずエアメールの相手は遠距離恋愛の恋人じゃなかったのかなと、淡い期待だけして僕はにやけながらさがる。