4. First finger(人差し指)

 アンジェラから「1週間で決める」と言われてから6日目の朝、開店準備をしていたらオーナーのジェニーが店にやってきた。

「How are you doing?(調子はどう?)」

 掃除をしていた私にジェニーが微笑みかけてくれたので笑顔でこたえようとしたら、カウンターの奥にいたマユが「I’m fine!」と大きな声をあげた。ジェニーは「Good」とマユにウィンクをして、事務室に入っていく。アンジェラが「コハルもマユも、一緒に来て」と私たちを促した。

 ぴりっとした緊張が走る。マユは顔をこわばらせたまま、私には一瞥もくれずにアンジェラの後を追い、私もマユに続いた。

 

  *     *     *     *     *     *

 

 こんなときはオージーBBQピザだ。仕事を終えて、今日こそは、とテイクアウェイショップに足を運ぶ。残り2枚、ラッキー。ここのピザは、モッツァレラチーズがたっぷり入っていて、大好きなズッキーニの焼き加減もちょうどいい。温かいうちに食べたくて、カプチーノと一緒にテイクアウェイすると、店の外に出ているベンチに座ってかぶりついた。大きな樹の陰でちょうど死角になり、通りからは少しはずれているので裏庭みたいな感じになる。ひとりになりたいとき、たまに利用しているスポットだった。

 こうしてピザを頬張りながら夜空を見上げる。ああ、この自由な感じ、いいな、と思う。私はやっぱりシドニーが好きだ。

 朝のジェニーの話を思い出す。明日、ジェニーの知り合いである日本人が2人、店に来るという。私とマユで彼女たちのネイルを担当するように、という指示だった。

 ジェニーを見送ったあと、アンジェラが私たちに言った。

「わかると思うけど、これが最後のテストよ。がんばってね」

 

 そしてさっき、鍵当番だった私は店を閉め、歩き出したところで声をかけられた。

「コハル!」

 マユだった。いつものとげとげしい表情ではなく、小さな子供みたいに心細そうな顔をしていた。

「どうしたの」

 私が言うと、マユはがばっと座り込み、土下座をした。

「お願い! 明日のネイルテスト、私に勝たせて!」

「ちょ、ちょっとやめてよ、顔あげてよ」

 私も一緒になって座り込み、マユの肩に手をやると、マユは私に顔を向けた。見たことのない、マユのハの字眉。唇もぷるぷると震えていた。

「今まで意地悪してわるかったわ。お願い、私、どうしてもシドニーに残りたいの」

「そんな、勝たせてって言われても……」

「だってコハルは、好きな人なんていないでしょう?」

「………え?」

「私はいるの。英会話教室の先生なの。でも片想いなのよ、彼とうまくいくまでは私、日本に帰れない!」

 マユはわっと泣き出した。

 彼女の必死さは、自己顕示でもプライドでもなくて……恋、だったのだ。

 私はふーっと大きくため息をついた。泣きじゃくっているマユをなんとか立たせ、彼女がいつも使っているバス停まで連れていった。バスが来るまで、ふたりとも無言だった。マユはとても小さく見えて、儚げで、なんだか壊れてしまいそうだった。

 

「それで情にほだされてしまったというわけですか」

 突然の声に回想からいきなり現実に呼び戻され、隣を見ると、目のくりくりした男性が2枚目のピザを口に運んでいた。いつのまに座ってたんだろう。

「それ私の!」

「なんで2枚も買うんですか、カロリー考えたほうがいいですよ」

「だって好きなんだもん」

 4人目のエフエフ。姿勢の正しい身体から放たれるのは、赤い光。

「好きというのは感情です。健康と美容を考えてコントロールするのが意志。私は、『意志』の意味を持つ人差し指のファーストと申します。よろしく、コハルさん」

 キリリとした眉毛、ウソをつかなそうな大きな瞳。「公明正大」って顔に書いてあるみたいだ。

「こんなにきちんと挨拶されたの初めて」

 私がおもしろがって言うと、ファーストは「そうですか」とだけ答えてあっというまにピザをたいらげた。優等生みたいななりで、食べっぷりは男らしい。

 リトル、サード、ミドル、そしてファースト。イケメン揃いのエフエフ。私はもうすでに彼らに対して免疫と余裕ができており、まじまじとファーストを鑑賞した。

「な、なんですか」

「ねえ、エフエフって、ひとりずつじゃなくていっぺんにみんなで出てきてくれないの?」

「まあ、そういうときもありますけど、それぞれ忙しいので」

 ファーストが眉間に皴を寄せる。ますます理知的になって、いい。

「手の指以外にも、足の指とか、目とか鼻とか耳とかにも、『気』はいるんでしょう?」

「そうですね、年末のカウントダウンあたりで全員集合して、歌ったり踊ったりすることもあるかもしれない」

「ええっ、見たい見たい! どうやったら見られる?」

 私が奇声をあげると、ファーストは手を広げて「まあまあ、落ち着いて。運が良ければご一緒しましょう」と私をなだめた。それって運なのか。

 ファーストが正面を向いたまま、目だけこちらに向ける。

「負けてあげるんですか?」

 マユのことを言っているのだ。

「負けてあげるも何も……私、マユがどうしてあんなこと言うのかぜんぜんわからない。実績も実力もマユのほうが私より数段上なのに。もっと自信家だと思ってた」

 ファーストが、ふ、と笑った。

「こわかったんでしょうね、コハルさんのことが」

「こわい?」

「気づきませんでしたか。たしかに、最初は見下していたかもしれない。いつもおどおどしているコハルさんに、イラついていたこともあったでしょう。でも彼女はどこかで知っていたんだと思います。コハルさんがネイリストとして有能であること。今回のヴィザの件でコハルさんが急にイキイキとし始めて、彼女は言いようのない不安に駆られるようになった。足を踏んだくらいじゃ、コハルさんはひるまないし、仕返しもしてこないですからね。敵意を表してこないライバルが一番脅威ですよ」

 淡々と語るファーストは、なんでも知っていそうで、なんでも答えてくれそうで、私はつい頼りたくなってしまった。

「私はどうすればいい?」

 ファーストは一瞬、驚いたような表情を浮かべ、たしなめるように微笑んだ。

「どうすればいいって? そんなことは、コハルさん自身がよくわかってるんじゃないですか」

 そう言ってファーストは、人差し指を自分の胸にあてた。

「今コハルさんに必要なのは、感情ではなく意志です」

 私の意志。

 そのとき、樹の陰から黒い猫が一匹現れた。じっとこちらを見ている。私が猫に気を取られていると、「ピザ、ごちそうさまでした」と後ろでファーストの声がした。

 振り向くともう、ベンチには私ひとりしか座っていない。猫が「にゃあ!」と一声叫んで去って行った。

 

 翌朝、事務室でマユと一緒になった。マユは私をちらりと見たが、無表情のままロッカーを開けている。私はマユに近づいた。

「おはよう、マユ」

「………おはよう」

「あのね」

 私が小声になると、マユはそっとうかがうように私に顔を向けた。私は続ける。

「実は私もいるんだ。好きな男のひと」

 マユが目を見開く。

「そ、そうなの?」

「うん。今のところ4人。でもたぶん、もうひとり会えるはずだからそうしたら5人。すごいでしょ」

 マユがぽかんと口を開けた。私は小声になるのをやめて、はっきりと言った。

「今日、がんばろうね!」

 何か言いたそうなマユに笑いかけ、私は胸を張って店に出た。

 

 意志。私の意志。

 勝ち負けじゃない。

 テストだからじゃない。

 私は私の、せいいっぱいの仕事をする。

 

 午後になって、2人連れのお客さまが来店した。

「ほーら、ここよ!」

 ゆるくパーマのかかった長い髪をまとめた、細身の婦人がにぎやかに入ってくる。その後ろで、ショートヘアのおとなしそうな婦人が静かに微笑んでいた。

「私、室井ですけど予約入ってます? ジェニーに言われて来たんだけど」

「はい、室井さま。お待ちしておりました。室井さまと朝加さまですね」

 アンジェラが一礼する。室井さまは機嫌よく「いい店じゃない!」と店内を見回した。

 アンジェラに指示され、私が室井さまを、マユが朝加さまを担当することになった。長テーブルのようになっている施術台で、私とマユは並んで座る。

 アームレストに両手を載せていただくと、ショッキングピンクの長い爪が現れた。先をとがらせたポイント型のスカルプチュア(つけ爪)。ラメがところどころ剥がれ、大小入り混じったストーンもおそらくいくつか取れてしまったのが見て取れた。

 サンプルをもとにネイルデザインを決めながら、室井さまは楽しそうに話し始めた。シドニーには2年前から住んでいること。ご主人が大手企業にお勤めのこと。去年からネイルにはまっていること。ネイルアートというのは色をつけるだけだと思っていたが、スカルプチュアの美しさを知り、自分でもセルフネイルで楽しむようになったこと。

 ふと隣を意識すると、朝加さまは言葉が少なく控えめで、マユが一方的にあれこれと提案をしていた。ネイルサロンどころか、ご自分でマニキュアを塗ったことさえないらしい。マユのアドバイスにあっさりと「それでいいです」と承諾されたようで、マユはもう施術の用意に取り掛かっていた。

 室井さまのデザインがほぼ決まってから、私はまずスカルプチュアを外すことから始めた。「これも自分でやったのよ」と室井さまは誇らしげに笑う。少女のようにウキウキとお話を続け、サロンでのネイルを楽しみにされているのが伝わってきた。私のテンションも上がるのと同時に、プレッシャーも押し寄せてくる。がんばろう。

 時間をかけてスカルプチュアをオフし、露わになった室井さまの自爪を見て私はハッと息をのんだ。

 

………グリーンネイルだ。

(続く!)