休憩から仕事に戻ると同時に、店の扉がほんの少し開いた。そっと中をうかがうように、日本人とおぼしき髪の長い女性が顔をのぞかせている。私は静かに近づいて行って「いらっしゃいませ」と声をかけた。
女性は私より少し年上だろうか。ふっくらとした体つきで、ピンクベージュのワンピースがよく似合っている。でもどこかおどおどとしていて、丸い瞳にも臆病な色が見て取れた。私はせいいっぱいの笑顔で「どうぞ、お入りください」と店内に手を向けた。
「あの、私、初めてで……」
女性は小さな声で言いながら、ふんわりとブロウされた髪の毛に手をやった。左手の薬指にシンプルなリングが光っている。既婚。
「初めてでいらっしゃいますか。今日はどのようにご希望でしょうか」
「……どのようにしたらいいのかしら」
女性はうつむいてしまった。私はとりあえずカウンターにご案内し、顧客カードを書いていただいた。塚本優子。几帳面な、小さくてくっきりとした文字。
「担当させていただきます、風間コハルと申します」
私が一礼すると、塚本さまはかぶせるように小声で、しかし強い口調で言った。
「自信が持てるようになりたいの」
私は顔を上げる。塚本さまは視線を手に落としていた。3秒ほどの沈黙が流れ、私は「では、サンプルをご覧になって…」とサンプルボードを差し出した。塚本さまは、色とりどりのサンプルを凝視したあと、「ごめんなさい、やっぱりいいわ」と席を立った。
「えっ、あの…」
「ごめんなさい」
塚本さまは繰り返しそう言い、無理に笑ってみせた。その笑顔に、ぎゅん、と胸が痛む。そして私は何も言えないまま、立ち尽くしてしまった。
扉を開けて出て行ってしまった塚本さまを見て、アンジェラが言った。
「あのお客さま、先週もいらしてたわ」
「そうなんですか」
「そのときは、店の中には入らず、外でうろうろしてた。日本人スタッフがいますっていう看板だけチェックして帰ったみたいだった」
「じゃあ、また来てくださるかも」
「どうかしらね。ネイルサロンって、それまで足を踏み入れたことのない人にとっては敷居が高いのかもしれないわ」
違うお客さまが入ってきて、アンジェラがにこやかに応対に入った。私の脳裏に、塚本さまの作り笑いが浮かぶ。私もきっと、前はよくあんなふうに笑っていた。こわばった顔で、笑ってるつもりで、ごめんなさいごめんなさいって。何も解決しないことを知っていたのに。
翌日はお休みだったので、私はボタニックガーデンの芝生に寝転んで「ひとり反省会」をしていた。広々として気持ちがいい公園で、私はことあるごとにここに来る。澄んだ冬の空気、青い空。今日は晴れていて日差しも温かい。誰もいない木陰の下、そよぐ風にうっとりと目を閉じる。
塚本さまが「自信が持てるようになりたい」って言ったとき、もっとなにか、いい答えがあったんじゃないのかな。店に入るのにも勇気がいっただろうに。でもよけいなこと言ったら、かえって逃げ出したくなっちゃうかもしれないし…。ぐじぐじと堂々巡りをして、なかなか結論が出ない。私ってダメだなあ、やっぱり。
「俺はダメじゃないと思うけどなぁ、ぜんぜん」
………初めて聞く声。目を閉じたまま推測するに、私のすぐ横から聞こえるということは…ということは…。
思い切って目を開き、右に目をやると、細身の男の人が私の隣で仰向けに横たわっていた。この唐突な登場、彼もやはりエフエフ?
「どの指?」
私が寝転んだまま言うと、彼は「まんなかー」と歌うように答えた。
彼氏いない歴2年、こんなふうに男の人と並んで寝そべるのは、いくらホンモノの人間じゃないとしてもやっぱりドキドキしてしまう。私は上半身を起こした。
「中指?」
「そう。中指のミドル」
ミドルは何がうれしいのか、くしゃっと笑った。端正な顔がいきなり子供っぽくなって、私は一瞬ミドルに魅入った。身体を包んでいるのは、芝生の色みたいな緑色の発光。
「リトルとよくつるんでるから、2人合わせてリトミドとか呼ばれてるの」
「つるんでる? どこで?」
「どこって……」
ミドルが急にがばっと起き上がり、私の右手をつかんだ。ひゃあっ、と声を上げると、彼は私に顔を近づけて笑った。
「コハルちゃんの手の中に決まってるでしょ?」
ミドルは手をにぎったまま、ぶんぶんと軽く振った。ひまわりみたいな満面の笑みで。コハルちゃん、だって。ずっと前から知ってる、仲良しの友達みたいな呼び方。
「ミドルはフランクだね。エフエフって、みんな手厳しいのかと思ってた」
私が言うと、ミドルは「うーん」と目を泳がせた。
「リトルもサードも、ほんとはすっげぇあったかいよ。表現の仕方が違うだけ」
「うん。それはわかる。すごく励まされたもの」
ミドルはいつのまにか私から手を放していて、それがさみしさを与えない自然なものだったので、ちょっとくらりときた。女慣れしているのか、天性のやさしさなのか。芝生の上に投げ出された足が、信じられないくらい細くて長い。見惚れていることを隠すように、私は続けた。
「リトルにはチャンスを逃すなって背中押してもらったし、サードには私の本当の願いに気づかせてらった」
「コハルちゃんの本当の願いって、何?」
ミドルが私の顔をのぞきこむ。はらりと目にかかる前髪が、風に揺れた。
「私の願いはね、ネイルを通して人を元気にすること。ひとり、またひとり、地道にどんどん元気にしていって、じわじわと世界中を元気にするの」
うん。うんうんうんうん。
ミドルは口元に笑みをたたえながら何度も頷いた。
「ほら、ダメじゃないじゃん。素敵だよ。前のコハルちゃんは元気なかったでしょ。だからきっと、元気じゃない人の気持ちがわかるんじゃない? ずーっと元気な人が見落としちゃうようなことでも、コハルちゃんは気づくことができるんじゃないかな」
「……そうかな」
「そうだよ。コハルちゃん、なんか急成長してるし」
「……そうかな」
「コハルちゃんならできるよ。あのお客さんのこと、きっと元気にしてあげられる」
「うわー、うれしいけどもういいよ!」
ミドルがあまりにも褒めてくれるので、私は恥ずかしくなって大声を出し、体育座りしている膝小僧の間と間に顔をうずめた。
「あはは、照れてる。かわいいなあ」
ミドルがひょいっと立った気配がした。そっとそちらに目をやると、予想以上に背が高い。彼は木陰から出て日差しを浴び、大きく伸びをした。
「あー、いい天気だなあ。走りたくなっちゃうよね」
光の中でミドルが言う。私はその屈託のない笑顔に心を奪われて、動けなくなった。
「中指の意味はね、行動力」
ミドルは腕と膝をきゅっと曲げ、スタートポーズをとった。すらりとした身体がしなる。
「俺、コハルちゃんと走ってるからね。いつも、ずっと、一緒だからね」
黒目がちなミドルの瞳が私を捉え、やわらかく光る。次の瞬間、ミドルはじっと前を見据えた。
よーい、スタート!
ミドルの声だったのか、私が言ったのかわからない。両方なのかもしれない。ミドルはさあっと走り出し、その細い後ろ姿を目に焼き付けようとする間もなく、風の中に消えた。
次の日の午後、お客さまをお見送りしようと扉を開けたら、塚本さまの姿があった。はっと顔をそむけたまま、看板を眺めている。私がお客さまをお見送りしたあとも、塚本さまは看板の字を目で追ったり、しきりに髪の毛をいじったりしていた。
このままそっとしておいたほうがいいんじゃないかとも思った。でも、何度も来てくれるってことは、本当はネイルをやりたくてたまらないはずだ。あと一歩の勇気がなくて、ぐるぐる考えすぎて、動けずにいるだけかもしれない。
……ああ、きっとそれは、今の私も同じだ。
行動。よーい、スタート。
私はできるだけ穏やかに、微笑んで声をかけた。
「中をご覧になるだけでも、どうぞ」
でも塚本さまは「いえ。ごめんなさい」と言って場を離れようとした。やっぱり、よけいなお世話だったか。そう思いつつも、身体が勝手に動いていた。
「待ってください」
「いいです、やっぱりネイルなんてやめます」
「違うんです。あの、私もなかったです」
去りかけている塚本さまの背中に向かって、私は言った。塚本さまが立ち止まり、おずおずと振り返る。私は続けた。
「私も、なかったです。自信なんて。オーストラリアでやっていく自信も、ネイリストとしての自信も」
「……」
「でも大丈夫です。ネイルって、不思議なちからがあるんです。魔法なんです。だからきっとお役に立てると思います。気が向いたら、またいらしてください」
それだけまくしたてると、私はぴょこんと大きくお辞儀をして、店に戻った。
次の日、塚本さまが店に現れた。私は駆け寄りたいくらいうれしかったが、先を越された。マユが「いらっしゃいませ、ご予約はなさっていますでしょうか」と飛び出していく。
「いえ、予約はしていないです……」
塚本さまはもじもじと下を向いている。マユが「どういったコースをご希望ですか? ハンドですか、フットですか」と矢継ぎ早に質問した。
ここで私が出ていったら、マユはいい気がしないだろう。以前、私が初めてのお客さまの受付をしていたらマユに横取りされたことがあったのだ。その仕返しと思われかねない。
でも。
でも塚本さまは、私が「いらしてください」と言ったことで、足を運んでくれたのかもしれない。
私は塚本さまの前に歩み寄り、「お待ちしておりました」と深く礼をした。
塚本さまは少し安堵したように、小さな声で言った。
「あの、あなたにやっていただきたいんです」
私は「もちろんです」と答え、カウンターに案内した。
マユが私の隣をすりぬけるとき、小さく舌打ちが聞こえた。さりげなくヒールの踵で足を踏まれる。猛烈に痛かったが、なんとか声を押し殺した。
塚本さまと向かい合って座り、手をアームレストに乗せていただく。塚本さまは自嘲気味に言った。
「ねえ、ほら、不恰好な手でしょう。指が太くて短くて。昔から自分の手が嫌いだったわ。こんな指にネイルなんかしても、みっともないだけなんじゃないかって思ってた」
「いいえ、ちっとも不恰好ではありませんよ。とてもやさしい指をなさっています」
「そう? あなたが言うならそうかしら」
塚本さまは、ふっと肩の力を抜いてまなざしを私に向けた。
「駐在員夫人たちの集まりが時々あってね。私、どんなにちゃんとメイクしてても、きれいなお洋服を着ていても、萎縮してしまうの。下を向いてばかりいると、この手ばかりが目に入ってね。ああ、醜い、自分は場違いだって落ち込んでしまうのよ。……変わりたい、って思ったの。でも思うだけで、勇気が出なかった。似合わないことしたって笑われるだけだって」
私は頷く。
「人と一緒にいるとき、メイクした顔は自分では見えません。お洋服も、鏡に映さなければ全体像は自分ではよくわかりません。でも手だけは、唯一自分から100パーセント丸ごと見える自分自身だなって私は思います。だから、ご自身の手を好きになっていただけるよう、私もがんばりますから」
「それは楽しみ」
塚本さまは首を傾けて笑った。その笑みは、どこにも負担のかかっていない自然なものだった。
「今日はお任せしてもいい? 私のネイルサロンデビューにふさわしいネイルを」
「かしこまりました」
私は心をこめてそう答え、魔法をかける準備を始めた。
(続く!)