2. Third finger(薬指)

 いつもより1時間早く、サロンに向かった。

 眠い目をこする。アンジェラからの電話は「開店前、他のスタッフが来る前に、マユとコハルと私とで特別ミーティングをしたい」という連絡だった。もともと鍵当番だったマユは私より先に来ていて、事務室のテーブルにつき、巻き髪の先をいじっていた。「おはよう」と声をかけると、マユは私を一瞥し、顎をわずかに動かした。やな感じ。もう慣れたけど。そこにアンジェラが入ってきて、マユは立ちあがる。ぴっと、背筋を伸ばしている。

「早く来てもらって悪かったわね。手短かに言うわ」

 アンジェラは上品な仕草でパイプ椅子を引いた。私たちも、アンジェラの前に並んで座った。

「来月、ノースシドニーに2号店がオープンする話は知っているわね?」

 私たちは頷く。

「ジェニーは2号店にすごく力を入れていて、キャリアのある日本人スタッフをひとり、わざわざ日本から呼び寄せていたの。お得意さんに日本人は多いし、ジェニーはいつも、日本人ネイリストの技術は素晴らしいって言ってる」

「ネイリスト」というのは日本で生まれた造語だ。英語では「マニキュアリスト」という。それでもアンジェラは、私たち日本人にはあえて「ネイリスト」という呼び方をいつもする。母国の言葉として大事にしてくれているのかもしれない。

「でもその日本人スタッフが、昨日、この期に及んでキャンセルしたいと言ってきたの。妊娠したらしくて、おめでたいことなんだけれど、ジェニーの落胆ぶりといったらなかったわ。それでね」

 アンジェラの「それでね」を合図のように、マユがぐいっと身を乗り出した。その姿に、アンジェラが笑みをこぼす。

「あなたたちのうち、どちらかひとり、2号店に異動させるのはどうかって、そういう話になったの。どういうことかわかる? ジェニーが日本からヘッドハンティングしたほどのポスト、その席よ。あなたたちは今、ワーキングホリデーのヴィザで雇用されているけど、しっかり向上心を持って腕を磨いてくれるなら……つまり、本気でこの店に腰を据えてやっていきたいという希望があるなら、スポンサーになってビジネスヴィザのサポートをしてもいいとジェニーは言うの。早急な話だけど、あなたたちの意志を聞かせてくれないかしら」

 マユは悲鳴に近いような感嘆の声を上げて頬に手をあてたが、私は何も言えず、動くこともできなかった。ビジネスヴィザのサポートをしてもらえる? 願ってもいなかった話だけど、でも。

「行きたいです、2号店。ビジネスヴィザで、ここでもっと頑張りたいです!」

 マユはストレートに言った。私がこの話を素直に喜べない理由はこれだ。私も志願したら、この貪欲で気の強いマユと闘うことになる。それを考えると気後れした。

アンジェラが私のほうに顔を向けた。

「コハルは?」

 いいえ、私は…そう言いかけて、左手のピンキーリングが目に留まった。リトル。チャンス、逃すなよ。そう言い残して消えた、皮肉っぽいようで優しい笑顔。

「あの、私も……私も、お願いします」

 言えた。小さな声にしかならなかったけど、言えた。顔が熱くほてっている。

 アンジェラは2秒ほど瞬きをしてから頷き、ビジネスライクに言った。

「あなたたちの人生にとっても、この店にとっても、すごく大切なことよ。今日から一週間、2人の働きぶりを見てどちらに2号店に行ってもらうかを決めるわ」

 アンジェラはすっと席を立った。マユが私をギッと睨みつけているのがわかる。私はその憎悪に満ちた視線に気づかないふりをして、右手の小指をじっと見ていた。

 

 

 午前中は、ほとんど落ち着かない気持ちで過ごした。マユはいつもに増してきびきびと動き、大きな声で接客をし、アンジェラに勤務態度をアピールしている。

 私はそんなマユに圧倒されてしまい、たいした働きもしていないくせにへとへとになってしまった。ひとり20分間与えられている昼休憩の順番がまわってきて事務室に入り、持ってきたサンドイッチを食べ終わると、ふーっと大きなため息が出た。なだれるように、テーブルに突っ伏す。

「勝てるわけないよねぇ……」

 ひとりごちると、後頭部をコンと叩かれた。

「なんでそんなの、わかるんだよ?」

 振り向くと、すごく怒ったすごく麗しい顔があった。誰もいないはずの事務室に、知らない若い男の人。こわい、だけど、きれい。きれい、だけど、こわい。眉毛がきりりと勇ましく、まつ毛がおそろしく長い。彫の深い顔の下に、がっしりした胸板があった。リトルと同じように、体全体が淡い光に包まれているけれど、彼は紫色だ。腕を組んで、ロッカーにもたれかかっている。

昨日の免疫もあって心臓が止まるような衝撃はなかったものの、やはりこの非現実的な現象はすんなりとは受け入れがたい。

「なにぽかんとしてんの」

 彼はくすりと小さく笑った。目にかかった前髪が濡れているように黒い。私はおずおずと尋ねる。

「あなたも指の気?」

「指の気。うん、まあ、そう」

「何指?」

「薬指のサード。『指の気』って、あんまりいいネーミングじゃないな。リトルがそう言ったの?」

「うん」

「それじゃ言いにくいだろうから、そうだな、俺らのことは『エフエフ』とでも呼んでよ」

「エフエフ?」

「Five Fingers! 略してエフエフ」

 サードは右手をぱあっと開き、おどけたようににっかりと笑った。急にあどけない表情になる。私もつられて笑った。

「やっと笑ったね、コハル」

 呼び捨てされてドキリとしていると、サードはまた険しい顔つきに戻ってしまった。

「こんないい話がきてるのに、しょぼくれてるっておかしくないか?」

 ドキリがグサリに変わる。

「だって……マユのほうが絶対、技術も接客も上だし。マユと争ったってかなうわけないよ。マユ、私も志願したことでめちゃくちゃ怒ってるし、これからどんな意地悪されるかわかんない」

 泣きべそになりそうなのをこらえながら言うと、サードは眉をひそめ、「そこ?」と首を傾けた。

「そこなの? コハルの基準はマユなの?」

「………」

「なんでシドニーに残りたいって思ったの? ただなんとなくやりたいとか、なんとなく楽しそうだからっていうんじゃ、なんとなく終わっちまうんだよ。コハルの夢とか目標って、なんなんだよ?」

 質問攻め。私は萎縮して固まってしまった。そんな私を見て、サードは強張った顔つきのまま、私にぐいっと近づいてくる。殴られるのかと思って後ずさりしたら、頭にぽんと手を置かれた。

 意表をつかれてサードを見上げると、彼は穏やかに微笑んでいる。

「思い出してみなよ。コハルがネイリストになりたいって思ったときの、最初の気持ち。ここまでくるのだって、簡単じゃなかったろ? イメージよりずっと地味な作業で、肩も腰も腕もぱんぱんになって、それでもがんばってきたんだろ」

 じわっと、目頭が熱くなる。……そうだ。最初に私が自分の爪に色をのせたのは、幼稚園のときだった。隣に住むお姉さんの真似をして、赤いマジックを塗ったのだ。それだけで、かわいくて心の強い、お姫様になったような気がした。爪を彩ることで、魔法がかかると知った。大きくなってから、誰かにとびきりの魔法をかけてあげたいって思った。でも実際に働き始めてからは、そんなことは不遜だと恥ずかしくなった。私よりもうんと素敵な魔法が使えるネイリストがたくさんいるって思い知ったから。ネイルの仕事に就いてから今までずっと、上達するための挑戦ではなく、とにかく失敗しないことに心を砕いてきてしまった気がする。

 オーストラリアに来たのは、そんな自分から抜け出したかったからのはずだった。でもやっぱり、私は特に変わり映えなく半分過ごしてしまった。他の仕事のキャリアなんかろくにないから、シドニーで唯一やれそうなネイルサロンの募集広告に飛びついたけど、このままワーホリのヴィザが切れて帰国したあと、私はどうするのだろう。サードの言うように、なんとなくオーストラリアに来ただけの私は、帰ってからもなんとなく生きていくんじゃないか。

 こんなんじゃ、だめだ。

 ここのところずっと私を急き立てていた焦燥感。女30歳、結婚の予定もなし、貯金もなし、帰国後の仕事のアテもなし。自信もなし、根性もなし……数えたらないものばっかりだ。

 そこまで考えたとき、サードが言った。

「根性はあるだろ。俺、すごい覚えてるよ。コハルがネイリストになって2年目くらいのときかな、派手なブランド好きの奥さんが来てさ。10本の指全部、ルイ・ヴィトンのダミエ模様にしてロゴもペイントしてちょうだい!って言われて。サロン中ドン引きだったけど、コハル、何の躊躇もなくコツコツ丁寧にやり遂げたじゃん。あれ、あの店で伝説になったんだよな」

「だって私は、お客さんのリクエスト通りにしただけで……」

「うん。あの客、相当喜んでた。コハルがきちんと願い叶えてくれたから。それに、客の指示だけで誰でもあんなふうにできるわけじゃないだろ。コハルは、色味とかロゴのバランスとか、ものすごい吟味して取り組んでた。コハルがいいネイリストかどうか、決めるのはコハルじゃない。アンジェラでもない。客だよ」

 サードは私の髪の毛をくしゃっと軽くつかんだ。

「薬指の意味は『願いを叶える』。コハルの願いは何? 俺ら5人で、コハルのこと応援してやるよ」

 私の願いは…。そう言おうとして口をひらきかけたとき、事務室のドアが勢いよく開いた。

「ちょっと、休憩長くない? 次、私の番なんだけど」

 マユだった。

「あ、ごめん…」

 あわててサードのほうを見ると、果たして彼はもう消えていた。マユが乱暴にロッカーを開ける。

「あんたさぁ、仕事やる気あんの? それとも私を疲れさせようって魂胆?」

「ううん、ごめんね、ボーっとしちゃって。仕事に戻ります」

 私は臆することなく快活に言い、事務室を出た。いつもびくびくしている私のその変化に、マユがちょっと驚いた顔をしている。すっきりとした高揚感が、胸の奥から湧き上がっていた。

(続く!)