1. Little finger(小指)

 ツイていないときは何をやってもうまくいかないものだ。

 ぐったり疲れて仕事から帰宅。私はアパートのドアを開け、真っ暗な部屋に入り、コートも脱がずにソファに倒れ込んだ。8月。シドニーの夏は寒い。

 ワーキングホリデーでオーストラリアに来て半年。応募規定ぎりぎり、30歳すべり込み組の私。英会話スクールに通ったり、旅行したり、それなりに楽しんできたけど、それも折り返し地点を過ぎてしまった。あと半年足らずでヴィザが切れる。「帰国」という言葉が、私を焦らせる。大好きなオーストラリア。ずっとここにいたい。それに私はまだ、「これをやった」という達成感を何も得られていないのだ。

 7月に入ってすぐ、ネイルサロンのスタッフとして雇用された。日本でのネイリストの経験が役に立った。「ネイルサロン・ジェニー」のオーナー、ジェニーの元で、私は来る日も来る日も、人の指先を眺めながら働いている。

 お客さんに指名されると、コミッションがつく。私はまだ、一度も指名されたことがない。同期で入ったマユは、日本人客をがんがん確保しているというのに。今日だって、私が初めてのお客さんの受付をしていたら、休憩から戻ってきたマユがペラペラとおススメをしゃべりだして、結果的に横取りされた。それがアンラッキーの始まり。お気に入りのジャパレスに寄ったらお休みだし、テイクアウェイショップで大好物のオージーBBQ(バーベキュー)ピザは売り切れてるし、買ったばかりのピアスは片方なくすし。身も心も冷え切っている。

 ソファに寝転んだまま、ヒーターに右手を伸ばした。思ったより遠くにあって、無理な体勢でスイッチを押そうと手をぶんぶん振っていたら、ヒーターの角に勢いよく小指が当たった。

「痛っ!」

 ……あれ?

 今、私の声……だけだった? なんか、もうひとり声が聞こえなかった?

 背筋がひやりとして、私はあわてて起き上がり、部屋の電気を点けた。

「痛いなあ、もう。気をつけてよ」

「…ひっ!!」

 ソファの肘掛けに、男の人が座っている。色白で、小柄で、猫背で、しかめつらをしている。不思議なことに、彼の体はぼんやりと黄色い光に縁どられていた。

 驚きと恐怖と、「けっこうイケメン」という事実に対するちょっとだけ甘い気持ちとがごっちゃになって、何も言えずに口をぱくぱくさせていると、彼は言った。

「あのさ、そのピンキーリング、いつも右指にしてるよね。諸説いろいろだけど、幸せって、右から入ってきて左から出ていっちゃうの。ちょっと外してみて」

「そ、そうなの!?」

 私は急いでリングを外した。そうか、数々の不運はそのせいだったのか…。

「いや、右にするのがダメっていうんじゃなくて。幸せを呼び込むから、それはそれでいいんだよ。でもアナタ、わりとラッキー体質なんだけど、運をとどめて活用するのが下手なんだよね」

 平坦に言われて、顔を上げる。よ、読まれてる? だから、いったい、この人は、誰!?

「俺はね、アナタの右の小指に宿ってる…なんていうのかな、『気』みたいなものかな。名前は特にないけど、小指だからリトルとでも呼んでよ。めったに姿現したり会話したりしないんだけどね。会えなくてもちゃんと存在してるんだけど、なかなかそれをわかってくれる人がいない」

「右の小指? 他のところにも、別の『気』がいるの?」

「いるよ。あらゆるところに、それぞれの『気』が宿ってる。たとえば歌手の喉とか、香水調合士の鼻なんかには強力なのがいるね。で、アナタの場合、ネイリストとしての右指1本1本に、なかなか有能な俺ら5人が宿ってる。せっかくいるのにさ、アナタ、なんか自滅してるっぽいから、ちょっと顔見せてやろうかなと、まあそういうわけですよ」

 上から目線の口調。でもなんだろう、ぜんぜんイヤじゃない。うれしい。ものすごく、うれしい。

「このままだとね、俺ら、アナタの中から消滅しちゃうから」

 リトルがぽつんと言う。

「『気』っていうのは、変動するんだ。本人次第で、どれだけでもパワフルになるし、どれだけでも弱くなるんだ。せっかくオーストラリアに来て、落ち込んでるだけじゃもったいないでしょ。俺らに元気をくれるのはアナタなの。だから、応援させてよ」

 リトルは唇をふにゃっと、かわいらしい形に曲げて笑った。こんなキュートな笑い方するんだ。彼の微笑みに包まれて、目頭がじわっと熱くなった。

「……私、がんばれる?」

 涙声で言うと、リトルは突き放すように答えた。

「だから、アナタ次第なんだって!  俺らは応援するだけ。ああ、そうだ。これくらいは教えることにする。指にもそれぞれ、意味があるんだよ。小指は『チャンス』」

「チャンス?」

「そう。俺、さっきなんでリング外してって言ったと思う?」

 ええと。……幸せは、右から入ってきて、左から出ていく。

 私はリングを左手の小指にはめなおした。

「正解。これで、入ってきたチャンスが左手から出ていくのをストップ。あとはアナタの努力あるのみ」

 リトルはにやっと笑った。

「あ、あのね、さっきからアナタアナタっていうけど、私、コハルっていう名前があるんだから」

 そのとき、スマホに電話がかかってきた。サロンのチーフ、アンジェラからだ。アンジェラはオーストラリア人と日本人のハーフで、英語も日本語もネイティブに話せる。なんだろう。

 私が電話に出るために画面をタッチしたのと同時に、

「チャンス、逃すなよ」

 リトルがそう言って、ふっと消えた。

 あっ、と思っているうち、電話の向こうで「もしもし」とアンジェラの声がする。

 私は気を取り直して、スマホを握りしめた。

(続く!)