4 : Breakfast

 朝日の中、私はキッチンでトーストを焼いていた。ホストファミリーのブライアンとパティは、ゴールドコーストで親戚の結婚式があるといって早朝から出かけてしまっているのだ。いつもはパティといっしょにする朝食の準備を、今日はひとりでしている。

 私はホームステイをしながら英語学校に通っている。学生といっても、もう31歳だ。北関東の小さな町で5年間、つまらないOL生活を送って、ださい制服を脱ぎ捨ててシドニーに飛び出してきた。学生ビザで、かれこれ3ヶ月。英語学校は半年で申し込んでいるから、折り返し地点にきている。

「おはよ」

 背後から声をかけられてびっくりした。昨日から、この家にもうひとり、27歳の日本人の男の子がステイしているんだった。彼はワーホリのビザで来ていて、半年かけて友達とふたりでオーストラリアをラウンドしたそうだ。そしてシドニーにたどりつき、彼もまた、今日から私と同じ英語学校に通うという。

「おはよう、マサト君」

「えっと……」

 彼は私の名前が思い出せないようで、心から困惑した様子だった。まじめな人らしい。

「チカコ。チカって呼んで」

「うん。俺も、マサでいいよ」

 マサ君は細長い体を折りたたむようにして椅子に座った。

「トースト、いる?」

 私が皿に載せたパンを差し出すと、彼は素直に受け取りながら恐縮した。

「ごめんね、ひとりで用意させちゃって。明日から、俺も手伝うから」

 私は「うん。先に食べてて」と相槌を打ちながら、もう一枚、自分のパンをトースターに入れた。スクランブルエッグでも作ろう、とフライパンを取り出す。実はちょっと、マサと向き合うのが照れくさくて、時間稼ぎでもあった。

 マサ君は長身で、こじゃれていて、それでいて屈託がなく、今まで私のまわりにはいなかったタイプの人だ。出身地は千葉だというけど、大学時代は東京で過ごしたらしい。さすがにあかぬけている。今日も、サーモンピンクのカットソーがとっても似合っていた。

「うわっ!」

 マサ君が突然大きな声を出したので、卵を焼いていた私までびくっと体がふるえた。

「ど、どうしたの?」

「なに、これ〜! チョコレートだと思ったのに!」

 べっとりと茶色いペーストが塗られた食べかけのトーストを皿に放り出し、マサ君はあわててコップに水を汲んだ。マサ君には悪いけれど、私は思わず噴き出してしまった。

 私も最初、マサ君と同じことをしたのだ。チョコレートに酷似したベジマイト。酵母の入ったペーストで、しょっぱくてなんともまずく、日本人の口には合わない。マサ君は今までの旅行生活でベジマイトに出くわさなかったらしい。

「ごめんね、ブライアンの大好物だから、ついいつもの癖でテーブルに出しちゃって。これ、覚えておいたほうがいいよ、オーストラリアのソウルフード、ベジマイト」

「うん、絶対忘れない。シドニーライフ2日目にして洗礼を受けたよ」

 ほとんど涙目になっているマサ君の前に、私は少しリラックスした気持ちで座った。

 マサ君は食べられなくなったトーストのかわりに、シリアルに牛乳をかけて食べ始めた。トーストをダストボックスに入れるとき、小さく「ごめんね」とパンに詫びているのが聞こえた。

 知り合ったばかりの男性と2人で朝食なんて、日本ではありえない。やっぱりオーストラリアは魔法の国だ。そんなことを思いながら卵をつついていると、マサ君が言った。

「チカさんは、なんでオーストラリアに来たの?」

 直球。私は幾度となく投げかけられたその質問に、いつものように答えた。

「英語のスキルを身につけたかったから」

 嘘だった。

 社内恋愛をしていた私は、大失恋をしたのだ。最近うまくいかないなぁと思っていたら、恋人が私の後輩を妊娠させてしまい、そのまま結婚してしまうというなんとも間抜けなオチだった。私は会社にいられなくなり、退職した。田舎の小さな会社の事務員だった私が、逃げ出せる場所。それが「英語を勉強するために海外へ短期留学する」という道だった。

 それが正解だったのか、今もわからない。眠れない夜に、時々、元恋人の仕打ちを思い出して胸が痛む。新婚生活を送っているであろう2人を想像するとつらい。どうすれば彼が私から離れていかずにすんだのだろうと、今さら考えても仕方ないことをぐるぐると思い巡らせたりもする。ああ、あんなことがあったせいで、こんなに遠くまで来てしまった、と。

「マサ君は、なんで?」

 今度は私が聞き返す。彼は躊躇なく答えた。

「俺さ、失恋しちゃって!」

 私は一瞬、目を見開いてしまった。なんて正直な。彼は誰にでもこんなにフランクなんだろうか。

「それで、すげぇ落ち込んだの。ひととおり落ち込んだあと、今度はすげぇ楽しいことやってみようって思った」

 彼は突然饒舌になり、私が返答をする間もなく、続けた。

「ここに来る前、バックパック背負って、友達とふたりでいろんなところに行ったよ。グレートバリアリーフでダイビングのライセンスも取ったし、エアーズロックにも登った。それがどれも楽しくて、旅行の間ずっと笑ってたよ。笑ってるとまた楽しいことが起きるんだよね。俺、今となっては振ってくれた彼女に感謝してるくらい。失恋してなきゃオーストラリアに来ようなんて思わなかったからね。こんないい思い、させてくれてありがとうって」

 私は少しため息をついた。マサ君と私。まるでチョコレートとベジマイトだ。見かけはおんなじ状況なのに、味がぜんぜん違う。

「……やっぱり、チョコレートがいいよね」

 私はひとりごちるように言った。マサ君はきっと、急に話が変わってしまったと思っただろう。なのに気を悪くした様子もなく、彼は言った。

「でも、チョコレートよりベジマイトがおいしいっていうブライアンみたいな人もいるし。それは人それぞれなんじゃない?」

 私は、はっと顔を上げた。マサ君が、なんだかものすごく大切なことを言ってくれたような気がしたのだ。彼にそんな深い意味はなかったのかもしれないけど、私は、自分自身を肯定してもらえたように思えた。

「そうだね。ありがとう」

 私が言うと、マサ君はちょっと不思議そうな顔して、そのあとくしゃっと笑った。目尻にできる笑い皺が、彼の人の良さを表していた。

 あまいか、しょっぱいか?

 私はトーストをかじりながら、しょっぱくても私なりに作り上げてきた人生だ、と思った。そしてこれからも、きっと大丈夫、歩いていける。