3 : Cocktail

 金曜の夜だというのに、私は晴れない気分でいた。

 特に落ち込むような理由があるわけではない。でも、妙に人恋しかった。

 私はだらだらと残業をし、テイクアウト……いや、オージー風に言えばテイクアウェイの、ぱさぱさしたフライドライスを押し込み、そのまま家に帰る気になれなくて、ノースシドニーにある小さなレストランを訪れた。

 ここは、遠距離恋愛中のアダムとよく通った店だった。バール風のカウンター席もあるレストランで、ひとりで行ってもそんなに臆することはない。カウンター席は10に満たないほどしかなく、そこに座ると、日本のショットバーにいるみたいで落ち着いた。この店のオーナーなのか、雇われ店長なのか、いつもカウンターにいる初老のブライアンとも、私たちは顔なじみになっていた。

 店内に入り、カウンターに腰かけると、ブライアンが笑顔で迎えてくれた。

「久しぶりだね、スウ。今日は独り? めずらしいね」

「ええ、アダムは日本に行ったきりだし」

「いつだったか一緒に来てくれたロングヘアのレディは?」

 同僚のミユキのことだ。一度しか連れてきていないのに、ブライアンはよく覚えている。

「年下の彼氏ができて、もっか熱愛中よ」

 私はモヒートを注文し、ブライアンは太った体を揺すらせながら「ウケタマワリマシタ」とおぼつかない日本語で答えた。彼は親日家で、家でも日本人の学生をホームステイさせているらしい。若い日本人に日本語を教わっては、こうやって時々披露してくれるのだった。

 ふと、カウンターの奥でグラスをみがいている青年が目に入る。見たところ、日本人らしい。

「新しい子が入ったのね」

「ああ、そう。紹介するよ。ジュン!」

 ジュンと呼ばれた青年は顔をあげ、こちらにやってきた。端正な顔立ちで、眉がりりしく、まつげが長く、どことなくエキゾチックなにおいがする。白いシャツに黒いベストを着ていて、それがすごく似合っていた。

「こちらのお嬢さんに、モヒートをお出しして」

 ブライアンはそう言い、自分はテーブル席にチップスを運びに行った。私は突然こんな目のくらむような美少年をあてがわれて戸惑ったが、ジュン君は意外にも人懐こく、自分のことをフランクに話してくれた。

 ワーホリビザで来ていること。日本ではデザイナーの仕事をしていたこと。オーストラリアでは、できるだけいろいろな仕事を経験したり、趣味の観劇を楽しみたいこと。彼のステアしてくれたモヒートを飲みながら話に耳を傾けていると、からっぽだった心が満ちていくのを感じた。

「今日は来てよかったわ」

 私は本心からそう言った。

「恋人とは遠距離だし、友達はできたばかりの彼氏とよろしくやっているし。今日はなんだか、ちょっとさみしい気持ちだったの」

 モヒート1杯で酔ってしまったのだろうか。そう言いながら私は、ジュン君に媚びているような自分を見つけて、ちょっぴり赤面した。いや、そんな女心を引き出してしまう魔力が、ジュン君にはあるのだった。

「それはよかった。女性の笑顔のためなら、労力は惜しまないつもりですよ」

 ジュン君が軽く流し目をしたのでドキリとしたけど、そんな気持ちを悟られないように私は笑った。

「お代わりはいかがですか?」

 もうすぐ空きそうなグラスを見てジュン君が言う。

「そうね……。何か選んでもらってもいい?」

 ジュン君は、眉毛をちょっと上げたあと、「おまかせください」と微笑んだ。

 彼は無言になり、真摯な顔つきでカクテルを作りはじめた。シェーカーに氷が入り、酒が入り、蓋をされる。そしてまるで舞うように、彼はシェーカーを振った。その姿は、何かのパフォーマンスのようで、私はジュン君の腕の動きや伏目がちの表情に見とれた。

 果たして私の前に現れたのは、ブルーのショートグラスだった。

「きれい」

「スカイ・ダイビングっていうカクテルです」

 その名のとおり、澄み切った青空を思わせるカクテルだった。一口飲んでみると、甘い中にほろ苦さがあり、柑橘の香りがした。

「恋人とも友達とも会えないときは、自由に羽ばたいたらいいんですよ。シドニーの青空を思い浮かべながらね」

 ジュン君はウィンクをしてそう言った。孤独なんじゃなくて、自由に羽ばたく日。

 これは浮気でもなんでもない。そう、ただ、解き放たれた気分を味わっているだけ。それを愉しめるのが、大人のカップルってものなのかもしれない。

 私は、麗しいバーテンダーに微笑み返し、脚を組みなおした。ひとりの夜も、まだまだ、すてたものじゃない。