2 : Rain

 昨夜、サリーヒルズに新しくできたワインバーで、遠距離恋愛のせつなさを語る同僚のすみれに一晩つきあわされた。「こんなこと聞いてくれるの、ミユキしかいないのよ!」とすみれはたまっていたものを吐き出していたようだ。海を隔てた恋人たちには、それはそれはいくつもの悩みがあるだろう。「恋人がいるだけいいじゃないの」という私の本音は、ワインといっしょに飲み込んだ。だからといって、ボトルをふたりで2本も開けることないのだ。目を覚ましたものの、二日酔いの頭が重くてなかなかベッドから起き上がれない。どうやら外は、雨が降っているらしい。

 今日はさしあたって予定もないし、冷蔵庫の残りもので簡単に食事をすませてごろごろしていよう。時計を見たら午前10時になるところだったが、私は枕に顔をうずめて二度寝にかかった。

 すると、チャイムの音がする。居留守をつかって無視しようとしたが、チャイムは思いがけず執拗だった。

 仕方なくインターフォンを取ると、「レンタル・コンセントから来ました、一宮です」と日本人の男の子の声がした。私はあっと口をおさえ、「少々お待ちください」と受話器を置き、急いでパジャマから部屋着に着替えた。

 すっかり忘れていた。私は、日本人経営の業者からDVDプレイヤーのレンタルをしている。プレイヤーの具合がおかしいので、今日、取り替えて設置してもらうアポイントメントを取っていたのだ。ぼさぼさの髪の毛をゴムでひとつにくくり、私はドアを開けた。

 そこには、漆黒の髪を持つ少年が立っていた。少年……そう、一瞬、10代に見えたのだ。すきとおるような白い肌や、小柄な背丈や、ひっそりしたたたずまい。しかし、「さっそく設置させていただきます」と彼が私に目線を投げたとき、彼はそんなに幼くはなく、30間近の私よりは年下だろうけれど、20代半ばの青年であることが見てとれた。

「びしょぬれね」

 私は言った。髪もシャツもジーンズも靴も、彼は見事に濡れていた。

「雨、途中でひどくなってきちゃって。でも、プレイヤーはきちんと梱包してきましたから大丈夫です」

「車で来なかったんですか」

「ええ、自転車で」

 彼は、小さく「失礼します」とつぶやいて靴を脱ぎ、部屋へ入った。私はバスタオルをひとつ彼に渡した。本当は、シャツやスウェットも貸してあげたいところだったが、それはさすがにやめておいた。

 彼はちょっとびっくりしたように私を見つめたあと、「ありがとうございます」とすなおに髪や顔を拭いた。

 いったいどうしてなんだろう。それだけのことなのに、思いがけず胸が高鳴っていた。彼がタオルを使う仕草に、私はなんだかセクシュアルなものを感じ取ってしまったのだ。彼はそんな私の想いに気づくはずもなく、黙々とプレイヤーのチェックをはじめ、ていねいな手つきで古いほうをはずしたり新しいほうを取り付けたりしていた。その間、私は手持ちぶさたに彼のうしろで勝手にどきどきしていた。イチノミヤ。彼の名前を、なぞるように反芻する。

「ちょっと、確認してみますね」

 彼はそう言って、持参したDVDのディスクをプレイヤーにセットした。タイタニック。早送りしたり、ポーズしたりして、プレイヤーがきちんと作動するかたしかめている。私はぼんやりとディカプリオのアップを眺めていた。

「……ここが好きなんです」

 不意に彼にそう言われて、私は思わず顔をあげた。

「I mean, I've got everything right here with me」

 ディカプリオがそう言っている。

「つまり、必要なものは全部持ってるってこと」

 彼はリモコンを持ったまま、私に目を向けた。私は10代の少女のようにどぎまぎしながら、その後のディカプリオのセリフを彼に続けた。「……健康な体、まっさらなスケッチブック」

「そう。そんなふうに、身軽に、大事なものだけ携えて、生きていけたらって思うんです」

 彼は唇の端を右側だけ上げて、少し笑った。

 そしてまた、黙って片付けをはじめた。

 

 彼が仕事を終えて帰ってしまったあと、私は鏡をのぞきこんだ。ああ、どうしてこんなときに出会ってしまったのだろう。酒臭く、髪は乱れ、どすっぴんの寝起きの私。もう一度、きちんとした格好で彼に会いたい……。

 そのとき、私は、テレビの上にタイタニックのDVDが置いてあるのを見つけた。

 急いで髪をとかし、眉を描き、グロスを塗った。自転車の彼に追いつくかはわからなかったけれど、私はDVDを持って走った。

 雨はやんでいた。横断歩道のところで信号待ちしている彼の後姿を見つけ、私は「すみませーん!」と大きな声をあげた。

 自転車にまたがった彼が振り返る。私が息を切らせて彼にたどりつき、DVDを見せると、彼はどういうわけか一瞬、深呼吸をするように大きく肩をゆらした。

「あの、忘れものです」

 私が彼にDVDを渡すと、彼はちょっと間を置いて、ひとりごちるように言った。

「……わざと忘れていったんです」

「え?」

 私がぽかんとしていると、彼はまた唇の端を右側だけ上げた。

「もう一度、あなたに会いたかったから」

 

 雨上がりのにおいがする。私は、あわてて化粧をしてきた自分を少し恥じた。

 そんなふうに付け焼刃で飾らなくても、私は「必要なものを持っていた」のかもしれない。

 横断歩道のシグナルが青に変わっても、彼は私の前で微笑んでいる。本の最初のページを開いたような、わくわくしたときめき。地面に視線を落したら、水たまりに、私たちふたりが鏡のように映っていた。